教育学を学ぶ

どんな仕事でも。

2月12日付の読売新聞を読んでいました。2面の「はたらく」の欄に、いわゆる3K職種で働く方のコメントが書かれていました。

このご時世、仕事に就くということは大変なことだということを否定するつもりはありませんし、そういうことを書いたら、きっと、批判を受けるだろうなあと思います。ただ、今回の記事に書かれたこともわからないではないのです。

昨年12月の有効求人倍率は全体では0.72倍だが、「接客・給仕職」「警備職」はともに3倍を超える。

斎藤さんも、自身の体験を踏まえて言う。「選ばなければ職はある。(職を選んで働かない人は)甘えているなぁと思う。どんな仕事でも続けているうちに、生きがいや、やりがいが見つかるのに」

以前、若い学生さんと話していたときに、「先生、やっぱり職は選びたいですよ」と言われたことを思い出します。確かにそうだと思います。私だって、今の仕事を選んでやっているわけですし。

でももう一方で、斎藤さんが書かれていることもわかるのです。

私は、やりたい仕事をしている人間ですから、たぶん、相当ラッキーな人間だと思っています。でも、私の仕事の中でも、やりたい部分はほんのわずかで、やりたくない部分もないわけではありません。また、よく考えてみたら、自分がずっと望んでいた仕事とは違う仕事もしています(汗)。

でも、それなりに一生懸命やっていると、この仕事にも愛着が出てくるものなのです。

本当にいろいろなことがあります。

でもしばらく、この仕事を続けてみようと思うのです。

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『チョコレート・アンダーグラウンド』

が、映画化されるそうですね。アニメーションです。

わお。

アレックス・シアラーのこの本は、金原瑞人さんが翻訳を出されたときに、すぐに読みました。金原さんは本当にいい本を訳してくれるなあと、実感しながら。

チョコレートの話ではありますが、まさに治安維持法下の日本のメタファーとして読めます。きっとそう読むことを筆者や訳者も期待しているんじゃないかな。

漫画にもなっているそうで。今回もアニメ化でしょ。子どもたちも見てくれるといいな、と思います。

私も見に行きたいのですが・・・。行けるかな?

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「おこる」必要はない。

今日も大学院で勉強してきました。その科目の本質的な部分とはちょっと違うのかもしれないのですが、印象に残ったことを書いておきたいと思います。

それは、「おこる必要はない」ということです。

誰かを成長させようと思ったり、伸ばそうと思ったときに、つい私たちは、おこってしまいますよね。私の先生は、「おこる必要はない」とはっきり断言されました。

そして私も、その考えに全面的に賛成です。

私は、研究論文を書かなければならない立場にもいることから、頭を自由にして、クリエイティヴな状況にしておくことはとても大切だと思っています。

堅い、新しい発想を拒むような雰囲気だと、評価されないから、あるいは失敗が許されないからと、自由な発想を持っていても表に出さないこともありますが、そもそも、身体そのものが堅くなってしまって、発想そのものもが出なくなってしまうからです。

「こんなことを言って笑われるのではないか」と意識的にセーブするのではなく、そもそも、発想そのものが生まれなくなってしまうわけです。

ですので、「おこる必要はない」には全面的に大賛成なのです。

安心した環境があってこそ、自由な発想そのものが生まれてくると思うからです。

今私は、何本か、修士論文の指導をしています。

学生たちと話していて、彼らが、教官の反応をおそれてか、がちがちな頭になっていることが非常に気になっています。

まったく考えが浮かばないようです。

何を聞いても「**先生はこう言ってました」「こういうようにしたら、論文になると言われました」ばかりかな、と。

無意識のうちに、評価を気にしているようです。

こういう状態だと、なかなかその人の論文にはつながらないので、まずはほぐし、安心できる環境づくりからの指導になります。

本当にこれは、大変です・・・(涙)。

そういうわけで、「おこらない」雰囲気の中で、クリエイティヴな発想を生み出しやすくしていく、そのような環境を学生さんたちに提供していきたいと考えています。

これって、とても大切なことだと思うのですよ。

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すれ違いのコミュニケーション。

昨日の阿部さんのお話の中で、もう一つ、印象に残っていることを書いておきたいと思います。

それは、アニメの作品になりきって日記を書いてくる子に対して、どう接するか、というお話です。

先生はそのアニメを見ていないから、その世界を共有できない、

そういう子どもの日記に、どうやって赤ペンを返していくのか、という文脈のお話でした。

佐藤学・谷川俊太郎の対談だったと思うのですが、谷川さんが、お年寄りの会話のことを紹介されていた部分があったのを思い出します。

確か、お年寄りがそれぞれ、自分の話したいことを話していて、内容は全然かみあっていなくって、すれちがっていて。

それでもコミュニケーションが取れている、という話です。

どうしても私は、全部はできるはずがないのに、子どもの持ってくる本や漫画を読んでいる/読もうとしていると思います。

もちろんそれはそれで、自分の世界が広がるし、その子といろいろ語れるので楽しいことなのではありますが。

でも、それができないと、子どもとはコミュニケーションが取れないわけじゃないんだ、ということに気づかされました。

「すれちがいのコミュニケーション」もあったんだ、と。

そういえば、私自身、大切な友人と、そうやってコミュニケーションを何度もとり続けていることを思い出しました。

私ってば、ほとんど彼が読むものを読んでない。たぶん、彼も。

それでもこりずに、お互いの話をしています。でもまあ私は、圧倒的に聞く方ですが、

こういうコミュニケーションもあっていいんだな、そんなことを感じました。

最近は、いつもよりは空いている時間が増えてはいるのですが、まだまだ時間に追われている毎日です。

教育の質を高めていけるよう、努力していきたいと思っています。

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北海道の阿部先生のお話を聞く会を開きます!

新年早々、うれしいニュースが飛び込んできました!

北海道の阿部先生が、当校で講演をしてくださいます!

年末の泉先生に続いて第二弾!

阿部先生も本当に魅力的な先生です。

本当に私は阿部さんにお世話になっています。

北海道の先生ですから、東京でお話が聞けるなんて、ものすごくラッキーです。

ぜひぜひお誘いあわせの上、お越しください!


日時:115日(木)

17時~ ガイダンス

18時~ 阿部先生のお話

*ただし、当日のスケジュールは変更になる可能性があります。

ブログでチェックいただくか、事前にお問い合わせいただければ幸いです。

会場:101番教室


資料の準備がありますので、お越しになる方は、事前にお申し込みください!

ほんと、楽しみです!

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大学が潰れる。

内田樹さんがLCA大学院大学の学生募集停止について以下のような記事を書いています。彼は、引用OKの方ですので、そのまま貼り付けておきます。

大学は市場に選別されるのか?

こんな記事を読んだ。

構造改革特区制度を利用して、株式会社が設立したLCA大学院大学(大阪市、学長・山崎正和中央教育審議会会長)が平成21年度の学生募集を停止することが17日、分かった。

学生数が定員を大幅に割り込み、経営難に陥っていた。

特区制度を利用して株式会社が設立した大学の募集停止は初めて。

LCA大は、経営コンサルティング会社「日本エル・シー・エー」(東京)の子会社が18年に開設。大卒者を対象にした2年制で、平日夜や土日の講義で企業経営を教えている。

文部科学省によると、一学年の定員70人に対し、19年度の入学者は14人、今年度は8人と大幅に割り込んでいた。同社は20年3月末で約1億8000万円の債務超過。親会社も7月末に債務超過を公表し、事業見直しを進めていた。在校生が卒業する22年3月末までは講義を続ける方針だが、その後は廃校の可能性もあるという。

特区制度による規制緩和で、株式会社の学校設立を認めた背景には、新規参入による競争で教育の質を高めようという狙いがあったが、現状はこうして設立された大学の多くで学生の確保に苦しんでいるという。(産経ニュース、12月18日)

これについてたいへん素朴な質問が二つある。

一つは「企業経営を教える大学」が企業経営に失敗した場合、その大学で教えていた教育「商品」は無価値であったと推論することを防ぐことができるかどうか、防げるとすればどのようなロジックによってか、という問いである。

こののち、卒業在校生たちが「詐欺」で大学を告訴した場合(良識ある市民であればそのような無体なことはしないと思うが)、理事会はどう弁明するのであろう。

おそらく、大学ではきちんとした経営学の教育が行われていたのであるが、それとは違うレベルで経営が破綻したのであるというふうに理事会の方々は述べられるであろう。

私はその通りだと思う。

企業経営を教えていた当の大学が経営破綻したという事実から私たちが引き出しうるのは、「教育にビジネスのロジックは適用できない」という言明である。

そして、これこそは私の年来の主張に他ならない。

evidence based 」という言葉は、こういう場合に使いたいものである。

第二の問いは、この破綻した大学の学長が「中央教育審議会会長」であるという事実にかかわるものである。

教育にかかわる国策の根本を議する審議会の長が経営破綻した大学にかかわっていた。

この事実から私たち大学人が引き出しうる実践的な(「にべもない」)教訓は「中教審の答申を真に受けて大学の制度改革に走ると危ないかも・・・」ということである。

なんと、これもまた私の年来の主張ではないか。

中教審は教育への「市場原理の導入」を許した。

進んで導入したとは言わないが、教育が市場原理に屈することを座視した。

市場原理とは「市場は間違えない」ということである。市場は「見えざる神の手」によって適者を選別し、不適者を排除するというルールに一票を投じることである。

私が知りたいのは、もしこの大学が市場から「不適」として排除されたとするならば、学長自身はその判定を是として受け容れるかどうか、ということである。

判定を粛々と受け容れ、「市場に不適とされた大学の教学の責任者」という事実を重く受け止めるなら、これから後、教育について公的な場で発言することは慎まねばならないだろう。

この判定を「否」とするなら(私としてはぜひそうしてほしいのだが)、「市場は教育機関の質について誤った判定を下すことがある」ということをこの機会にはっきり語っていただきたいと思う。

市場による格付けとか定員充足率とか偏差値とか科研の採択率とか卒業生の就職力とか生涯賃金とか、そんなものは大学における教育の指標としては「たいした意味はない」ときっぱり語っていただければと思う。

中教審会長のその言葉はどれほど私たちを勇気づけるであろうか。

「数値で教育のアウトカムは測れない。市場のニーズは教育の質に相関しない」

日本における真の「教育再生」はその言明からしか始まらないと私は信じている。

LCA大学院大学が募集停止という記事を読んだ瞬間私は、俗っぽく、経営を教えていた大学が経営破綻するなんて、と思いました。

内田さんが書かれている第一の問いの方ですね。

そこで教えている経営学は、内容的にまずいんじゃない、ということです。

でも、そんな俗っぽいレベルの反応ではだめですよね。

教育の論理と市場原理とは異なることを改めて確認しておかなければいけないと思いますよね。

けれども、現実に高等教育は、市場原理で選択されています。市場は、教育機関の質について誤った判定を下すことがあります。けれども、誤った判定であったとしても、市場に選択されなければ、大学は潰れてしまいます。

大学を潰さないためには……質が低くても、市場が求める大学でなければならないのかもしれません。

「市場のニーズは教育の質に相関しない」

確かにその通りだと思います。

では、その先をどう考えたら良いのでしょう。

大学を潰さないためには、教育の質よりも、市場のニーズを読まなければならないのでしょうか。

義務教育はともかく(選択制もありますが)、選択が前提の大学の場合、現実には、市場のニーズを読むしかないのでしょうか。

市場のニーズに応じながら、どこまで教育の質を追求できるのか。

経営なんかにかかわらないで、教育の質だけを語ることができていた頃はなんて幸せだったのだと思います。もちろん、その逆もそうでしょうが。

教育と経営という対立するものを内包していくこと、本当にこれは辛いですね。

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お母さんたちも勉強しよう!;懐かしい生活。

こんなことを書くと、嫌われてしまうかなあ・・・と若干、心配な気持ちにならないこともないのです。

でも、少しでも良くなってほしいから。あえて書きます。

お母さんたちも勉強しよう!と。

よくお母様たちからご相談を受けます。「うちの子、いくら言っても、勉強をしないんですよ」

そうですよね。子どもってそういうものです。言って勉強してくれるんだったら、みんな勉強してる(汗)。

もちろん、「勉強やった?」とお母様たちに声をかけてほしいとは思うのですが、もう一つ、お願いしたいこと。

それは、おうちで勉強する雰囲気を作ってほしい、ということです。

リビングでお母さんたちがお茶しながらテレビを見ているときに、自分の部屋に行って勉強しなさい、と言っても子どもは勉強するわけはないかな、と。

そうではなくて、一日に1時間でいいから、テレビを消して、お母さんが本を読んでいたら。そして、本だけでなくて、何か書き物をしていたら。子どもは隣で勉強を始めると、思いません?

こう書いてきて私は、自分の育った環境を思い出してきました。

私の両親は、学歴は全く高くないし、文化資本は極めて少ない家庭です。にもかかわらず、なぜ私が、大学院の博士課程まで行き、さらにいくつも大学を出るような勉強をするようになったか? というか、勉強することが苦ではなくなったか。

もちろん別に、大学院に行けばいいというわけではないし、それを自慢してるなんて絶対に思わないでくださいね。だって本当に私は、大学に行けばいいってものじゃないと思っているんですから! ただ、学ぶことが嫌いじゃなくなった、ぐらいの意味で受け取っていただければ・・・

よく思い出してみると、我が家には、勉強する雰囲気はあったと思います。確実に。

まず、母は結婚するまでは本屋さんに勤めていましたので、本屋さんとは関係が深いのでありました。なので、田舎ではありましたが、おもしろそうな本が出ると、本屋さんが教えてくれていたし、ちゃんと百科事典もありました。しかも私の部屋に。リビングの飾り物ではないってとこがすごいでしょ(笑)。いつもその百科事典を抱え、ぼろぼろにしてましたから。

そして母は、毎日一定程度の本を読み、一定程度の「原稿」を書いていました。もちろん、作家というわけではないのですが、ちょっとしたスピーチを毎日していましたから。時間がないときは原稿無しでスピーチをしていたようですが、改まったときなどは、どんなに忙しくても原稿を書いていました。

なので、リビングにはぼろぼろになった漢和辞典が置いてあったのをよく覚えています。あの漢和辞典、どこにいったのかな。

子どものときに、こういう体験ができたことを、私は、幸せだと思っています。

そういえば私は、一度も「勉強をしなさい」と言われたことがないんですよね。むしろ、勉強しないで早く寝なさい、勉強しないで手伝いをしないさい、いつもそう叱られていました。

子どもたちが寝てから(小学校の間は8時就寝でしたから!)、両親は暇だったのでしょうね、それから手芸というか、二人で手仕事をしていました。

私自身が育った環境だからでしょうか、私にとってはそれが当たり前で、それが自分の理想の生活のように思えてきます。健全だなあ、と。もちろん、そんな、健全なんて軸は、無いとは思うのですが。

でも私にとっては、ああいう生活が非常に懐かしいのです。

知人に、この話をしたら、すぐに言われました。「先生、そんな家、変ですよ」

ははは。やっぱり、そうかな。

母が本を読み、文章を書き、両親が内職でもないのに手仕事をし、夜8時に寝て朝4時に起きる。

私の小学校6年間は一日も違わず、このような生活でした。

私にとってはこれが普通の生活。あの生活をもう一度、してみたい。

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「学ぶ」ことと「信じる」こと

昨日、学生さんと長く話しました。

体調は良くなかったのですが、頭は働いていたので、学ぶことについて、そして、私の周りで「伸びて」いる人のパターンについて。

私の鋭い知人が前に言っていました。

「先生の学生で、教育社会学にはまった人は伸びますね」

私は、大学院では教育社会学を専攻していましたから。教育社会学にはまるということは、私の世界に入り込んだ人、ということなのです。

私もそう思います。僭越ながら、私の世界に、私が面白いと思っていることを同じように面白いと思い、それに影響を受けて、はまっていく人というのは、伸びるのです。結果もでます。

そういう話をしていました。

もちろん、はまる対象は、私以外でもかまわないのです。とにかく、自分の「先生」を見つけて、その先生の世界にはまることができた人じゃないと、伸びるのは難しいというような話をしていたんです。

それで今日、内田樹さんの『街場の教育論』を読んでおりました。次のような一節がありました。

「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。(155頁)

いやあ、本当に驚きました。まったく同じことを言ってます。

というか、私自身、内田樹さんのように考え、そのような思考でしか分節されないように生きているのだから、当然かもしれませんが・・・

信じることができないと、学べないのだと思うのです。

それしかできないんじゃないかな。

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学生からのサプライズ。

先日、非常勤で教えている予備校でサプライズがありました。

その日は、正規の課程の最終日でした。受験に必要な学習は終わってしまっていましたので、私の趣味の世界(とはいっても、学習にはなると思うのですが・・・・・・)でラカンについて学習をして、卒業論文の提出を控えている学生にはそのコメントをしておりました。

まあ、それはそれでおもしろい議論になったと満足していたら、サプライズです。

前期のみの受講生だった学生も教室に入ってきて、全員起立、「ありがとうございました!」のご挨拶が。いやあ、驚きました。だってここは、予備校でしょ?? 学校の卒業式じゃないから。

それで、皆さんからのメッセージの書かれた色紙と花束を頂戴しました。

いやあ、本当に驚きました。

温かいお一人おひとりからのメッセージを拝見いたしました。

その後、写真を撮ったのですが、さりげなくその色紙に貼ってくださっていたり。皆さんが協力して準備を進めてくださっていたのを感じます。

ありがたいことですねえ。

夜、帰ってきてから、スタッフにこのことを話しました。彼は一言、「教師冥利につきますねえ」と。そうですね。

皆さんが4月から、それぞれの進路でご活躍されることをお祈りしています。

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「教え方」(?)のスタイル

どういうわけか、私は普通ではない存在だそうです。

私自身は、この自分と何年もお付き合いしてきたわけだし、これが当たり前だと思っているのですが、どうもそうではないらしい・・・(涙)。

まあ、人格に関わる部分はともかく、として、私の授業スタイル、教え方、学生さんとの関わり方が、普通ではないみたいです。

う~ん、ああいうメンバーがいたら、ああいうふうにしか授業はできないし、ああいうふうにしか、学生さんとは関われないと思うのですが・・・。他に、関わり方ってあるのかしら?? 私のスタイル以外に、方法はないと、本気で思っているのに。

どこが個性的なんだろう??

どなたか、教えていただけませんか。

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