教育学を学ぶ

どんな仕事でも。

2月12日付の読売新聞を読んでいました。2面の「はたらく」の欄に、いわゆる3K職種で働く方のコメントが書かれていました。

このご時世、仕事に就くということは大変なことだということを否定するつもりはありませんし、そういうことを書いたら、きっと、批判を受けるだろうなあと思います。ただ、今回の記事に書かれたこともわからないではないのです。

昨年12月の有効求人倍率は全体では0.72倍だが、「接客・給仕職」「警備職」はともに3倍を超える。

斎藤さんも、自身の体験を踏まえて言う。「選ばなければ職はある。(職を選んで働かない人は)甘えているなぁと思う。どんな仕事でも続けているうちに、生きがいや、やりがいが見つかるのに」

以前、若い学生さんと話していたときに、「先生、やっぱり職は選びたいですよ」と言われたことを思い出します。確かにそうだと思います。私だって、今の仕事を選んでやっているわけですし。

でももう一方で、斎藤さんが書かれていることもわかるのです。

私は、やりたい仕事をしている人間ですから、たぶん、相当ラッキーな人間だと思っています。でも、私の仕事の中でも、やりたい部分はほんのわずかで、やりたくない部分もないわけではありません。また、よく考えてみたら、自分がずっと望んでいた仕事とは違う仕事もしています(汗)。

でも、それなりに一生懸命やっていると、この仕事にも愛着が出てくるものなのです。

本当にいろいろなことがあります。

でもしばらく、この仕事を続けてみようと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『チョコレート・アンダーグラウンド』

が、映画化されるそうですね。アニメーションです。

わお。

アレックス・シアラーのこの本は、金原瑞人さんが翻訳を出されたときに、すぐに読みました。金原さんは本当にいい本を訳してくれるなあと、実感しながら。

チョコレートの話ではありますが、まさに治安維持法下の日本のメタファーとして読めます。きっとそう読むことを筆者や訳者も期待しているんじゃないかな。

漫画にもなっているそうで。今回もアニメ化でしょ。子どもたちも見てくれるといいな、と思います。

私も見に行きたいのですが・・・。行けるかな?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「おこる」必要はない。

今日も大学院で勉強してきました。その科目の本質的な部分とはちょっと違うのかもしれないのですが、印象に残ったことを書いておきたいと思います。

それは、「おこる必要はない」ということです。

誰かを成長させようと思ったり、伸ばそうと思ったときに、つい私たちは、おこってしまいますよね。私の先生は、「おこる必要はない」とはっきり断言されました。

そして私も、その考えに全面的に賛成です。

私は、研究論文を書かなければならない立場にもいることから、頭を自由にして、クリエイティヴな状況にしておくことはとても大切だと思っています。

堅い、新しい発想を拒むような雰囲気だと、評価されないから、あるいは失敗が許されないからと、自由な発想を持っていても表に出さないこともありますが、そもそも、身体そのものが堅くなってしまって、発想そのものもが出なくなってしまうからです。

「こんなことを言って笑われるのではないか」と意識的にセーブするのではなく、そもそも、発想そのものが生まれなくなってしまうわけです。

ですので、「おこる必要はない」には全面的に大賛成なのです。

安心した環境があってこそ、自由な発想そのものが生まれてくると思うからです。

今私は、何本か、修士論文の指導をしています。

学生たちと話していて、彼らが、教官の反応をおそれてか、がちがちな頭になっていることが非常に気になっています。

まったく考えが浮かばないようです。

何を聞いても「**先生はこう言ってました」「こういうようにしたら、論文になると言われました」ばかりかな、と。

無意識のうちに、評価を気にしているようです。

こういう状態だと、なかなかその人の論文にはつながらないので、まずはほぐし、安心できる環境づくりからの指導になります。

本当にこれは、大変です・・・(涙)。

そういうわけで、「おこらない」雰囲気の中で、クリエイティヴな発想を生み出しやすくしていく、そのような環境を学生さんたちに提供していきたいと考えています。

これって、とても大切なことだと思うのですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

すれ違いのコミュニケーション。

昨日の阿部さんのお話の中で、もう一つ、印象に残っていることを書いておきたいと思います。

それは、アニメの作品になりきって日記を書いてくる子に対して、どう接するか、というお話です。

先生はそのアニメを見ていないから、その世界を共有できない、

そういう子どもの日記に、どうやって赤ペンを返していくのか、という文脈のお話でした。

佐藤学・谷川俊太郎の対談だったと思うのですが、谷川さんが、お年寄りの会話のことを紹介されていた部分があったのを思い出します。

確か、お年寄りがそれぞれ、自分の話したいことを話していて、内容は全然かみあっていなくって、すれちがっていて。

それでもコミュニケーションが取れている、という話です。

どうしても私は、全部はできるはずがないのに、子どもの持ってくる本や漫画を読んでいる/読もうとしていると思います。

もちろんそれはそれで、自分の世界が広がるし、その子といろいろ語れるので楽しいことなのではありますが。

でも、それができないと、子どもとはコミュニケーションが取れないわけじゃないんだ、ということに気づかされました。

「すれちがいのコミュニケーション」もあったんだ、と。

そういえば、私自身、大切な友人と、そうやってコミュニケーションを何度もとり続けていることを思い出しました。

私ってば、ほとんど彼が読むものを読んでない。たぶん、彼も。

それでもこりずに、お互いの話をしています。でもまあ私は、圧倒的に聞く方ですが、

こういうコミュニケーションもあっていいんだな、そんなことを感じました。

最近は、いつもよりは空いている時間が増えてはいるのですが、まだまだ時間に追われている毎日です。

教育の質を高めていけるよう、努力していきたいと思っています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

北海道の阿部先生のお話を聞く会を開きます!

新年早々、うれしいニュースが飛び込んできました!

北海道の阿部先生が、星槎大学SCAで講演をしてくださいます!

年末の泉先生に続いて第二弾!

阿部先生も本当に魅力的な先生です。

本当に私は阿部さんにお世話になっています。

北海道の先生ですから、東京でお話が聞けるなんて、ものすごくラッキーです。

ぜひぜひお誘いあわせの上、お越しください!


日時:115日(木)

17時~ 星槎大学SCAのご紹介

18時~ 阿部先生のお話

*ただし、当日のスケジュールは変更になる可能性があります。

ブログでチェックいただくか、事前にお問い合わせいただければ幸いです。

会場:星槎大学SCA

http://homepage3.nifty.com/gasylkuni/guide/access.html


資料の準備がありますので、お越しになる方は、事前にお申し込みください!

ほんと、楽しみです!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大学が潰れる。

内田樹さんがLCA大学院大学の学生募集停止について以下のような記事を書いています。彼は、引用OKの方ですので、そのまま貼り付けておきます。

大学は市場に選別されるのか?

こんな記事を読んだ。

構造改革特区制度を利用して、株式会社が設立したLCA大学院大学(大阪市、学長・山崎正和中央教育審議会会長)が平成21年度の学生募集を停止することが17日、分かった。

学生数が定員を大幅に割り込み、経営難に陥っていた。

特区制度を利用して株式会社が設立した大学の募集停止は初めて。

LCA大は、経営コンサルティング会社「日本エル・シー・エー」(東京)の子会社が18年に開設。大卒者を対象にした2年制で、平日夜や土日の講義で企業経営を教えている。

文部科学省によると、一学年の定員70人に対し、19年度の入学者は14人、今年度は8人と大幅に割り込んでいた。同社は20年3月末で約1億8000万円の債務超過。親会社も7月末に債務超過を公表し、事業見直しを進めていた。在校生が卒業する22年3月末までは講義を続ける方針だが、その後は廃校の可能性もあるという。

特区制度による規制緩和で、株式会社の学校設立を認めた背景には、新規参入による競争で教育の質を高めようという狙いがあったが、現状はこうして設立された大学の多くで学生の確保に苦しんでいるという。(産経ニュース、12月18日)

これについてたいへん素朴な質問が二つある。

一つは「企業経営を教える大学」が企業経営に失敗した場合、その大学で教えていた教育「商品」は無価値であったと推論することを防ぐことができるかどうか、防げるとすればどのようなロジックによってか、という問いである。

こののち、卒業在校生たちが「詐欺」で大学を告訴した場合(良識ある市民であればそのような無体なことはしないと思うが)、理事会はどう弁明するのであろう。

おそらく、大学ではきちんとした経営学の教育が行われていたのであるが、それとは違うレベルで経営が破綻したのであるというふうに理事会の方々は述べられるであろう。

私はその通りだと思う。

企業経営を教えていた当の大学が経営破綻したという事実から私たちが引き出しうるのは、「教育にビジネスのロジックは適用できない」という言明である。

そして、これこそは私の年来の主張に他ならない。

evidence based 」という言葉は、こういう場合に使いたいものである。

第二の問いは、この破綻した大学の学長が「中央教育審議会会長」であるという事実にかかわるものである。

教育にかかわる国策の根本を議する審議会の長が経営破綻した大学にかかわっていた。

この事実から私たち大学人が引き出しうる実践的な(「にべもない」)教訓は「中教審の答申を真に受けて大学の制度改革に走ると危ないかも・・・」ということである。

なんと、これもまた私の年来の主張ではないか。

中教審は教育への「市場原理の導入」を許した。

進んで導入したとは言わないが、教育が市場原理に屈することを座視した。

市場原理とは「市場は間違えない」ということである。市場は「見えざる神の手」によって適者を選別し、不適者を排除するというルールに一票を投じることである。

私が知りたいのは、もしこの大学が市場から「不適」として排除されたとするならば、学長自身はその判定を是として受け容れるかどうか、ということである。

判定を粛々と受け容れ、「市場に不適とされた大学の教学の責任者」という事実を重く受け止めるなら、これから後、教育について公的な場で発言することは慎まねばならないだろう。

この判定を「否」とするなら(私としてはぜひそうしてほしいのだが)、「市場は教育機関の質について誤った判定を下すことがある」ということをこの機会にはっきり語っていただきたいと思う。

市場による格付けとか定員充足率とか偏差値とか科研の採択率とか卒業生の就職力とか生涯賃金とか、そんなものは大学における教育の指標としては「たいした意味はない」ときっぱり語っていただければと思う。

中教審会長のその言葉はどれほど私たちを勇気づけるであろうか。

「数値で教育のアウトカムは測れない。市場のニーズは教育の質に相関しない」

日本における真の「教育再生」はその言明からしか始まらないと私は信じている。

LCA大学院大学が募集停止という記事を読んだ瞬間私は、俗っぽく、経営を教えていた大学が経営破綻するなんて、と思いました。

内田さんが書かれている第一の問いの方ですね。

そこで教えている経営学は、内容的にまずいんじゃない、ということです。

でも、そんな俗っぽいレベルの反応ではだめですよね。

教育の論理と市場原理とは異なることを改めて確認しておかなければいけないと思いますよね。

けれども、現実に高等教育は、市場原理で選択されています。市場は、教育機関の質について誤った判定を下すことがあります。けれども、誤った判定であったとしても、市場に選択されなければ、大学は潰れてしまいます。

大学を潰さないためには……質が低くても、市場が求める大学でなければならないのかもしれません。

「市場のニーズは教育の質に相関しない」

確かにその通りだと思います。

では、その先をどう考えたら良いのでしょう。

大学を潰さないためには、教育の質よりも、市場のニーズを読まなければならないのでしょうか。

義務教育はともかく(選択制もありますが)、選択が前提の大学の場合、現実には、市場のニーズを読むしかないのでしょうか。

市場のニーズに応じながら、どこまで教育の質を追求できるのか。

経営なんかにかかわらないで、教育の質だけを語ることができていた頃はなんて幸せだったのだと思います。もちろん、その逆もそうでしょうが。

教育と経営という対立するものを内包していくこと、本当にこれは辛いですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お母さんたちも勉強しよう!;懐かしい生活。

こんなことを書くと、嫌われてしまうかなあ・・・と若干、心配な気持ちにならないこともないのです。

でも、少しでも良くなってほしいから。あえて書きます。

お母さんたちも勉強しよう!と。

よくお母様たちからご相談を受けます。「うちの子、いくら言っても、勉強をしないんですよ」

そうですよね。子どもってそういうものです。言って勉強してくれるんだったら、みんな勉強してる(汗)。

もちろん、「勉強やった?」とお母様たちに声をかけてほしいとは思うのですが、もう一つ、お願いしたいこと。

それは、おうちで勉強する雰囲気を作ってほしい、ということです。

リビングでお母さんたちがお茶しながらテレビを見ているときに、自分の部屋に行って勉強しなさい、と言っても子どもは勉強するわけはないかな、と。

そうではなくて、一日に1時間でいいから、テレビを消して、お母さんが本を読んでいたら。そして、本だけでなくて、何か書き物をしていたら。子どもは隣で勉強を始めると、思いません?

こう書いてきて私は、自分の育った環境を思い出してきました。

私の両親は、学歴は全く高くないし、文化資本は極めて少ない家庭です。にもかかわらず、なぜ私が、大学院の博士課程まで行き、さらにいくつも大学を出るような勉強をするようになったか? というか、勉強することが苦ではなくなったか。

もちろん別に、大学院に行けばいいというわけではないし、それを自慢してるなんて絶対に思わないでくださいね。だって本当に私は、大学に行けばいいってものじゃないと思っているんですから! ただ、学ぶことが嫌いじゃなくなった、ぐらいの意味で受け取っていただければ・・・

よく思い出してみると、我が家には、勉強する雰囲気はあったと思います。確実に。

まず、母は結婚するまでは本屋さんに勤めていましたので、本屋さんとは関係が深いのでありました。なので、田舎ではありましたが、おもしろそうな本が出ると、本屋さんが教えてくれていたし、ちゃんと百科事典もありました。しかも私の部屋に。リビングの飾り物ではないってとこがすごいでしょ(笑)。いつもその百科事典を抱え、ぼろぼろにしてましたから。

そして母は、毎日一定程度の本を読み、一定程度の「原稿」を書いていました。もちろん、作家というわけではないのですが、ちょっとしたスピーチを毎日していましたから。時間がないときは原稿無しでスピーチをしていたようですが、改まったときなどは、どんなに忙しくても原稿を書いていました。

なので、リビングにはぼろぼろになった漢和辞典が置いてあったのをよく覚えています。あの漢和辞典、どこにいったのかな。

子どものときに、こういう体験ができたことを、私は、幸せだと思っています。

そういえば私は、一度も「勉強をしなさい」と言われたことがないんですよね。むしろ、勉強しないで早く寝なさい、勉強しないで手伝いをしないさい、いつもそう叱られていました。

子どもたちが寝てから(小学校の間は8時就寝でしたから!)、両親は暇だったのでしょうね、それから手芸というか、二人で手仕事をしていました。

私自身が育った環境だからでしょうか、私にとってはそれが当たり前で、それが自分の理想の生活のように思えてきます。健全だなあ、と。もちろん、そんな、健全なんて軸は、無いとは思うのですが。

でも私にとっては、ああいう生活が非常に懐かしいのです。

知人に、この話をしたら、すぐに言われました。「先生、そんな家、変ですよ」

ははは。やっぱり、そうかな。

母が本を読み、文章を書き、両親が内職でもないのに手仕事をし、夜8時に寝て朝4時に起きる。

私の小学校6年間は一日も違わず、このような生活でした。

私にとってはこれが普通の生活。あの生活をもう一度、してみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「学ぶ」ことと「信じる」こと

昨日、学生さんと長く話しました。

体調は良くなかったのですが、頭は働いていたので、学ぶことについて、そして、私の周りで「伸びて」いる人のパターンについて。

私の鋭い知人が前に言っていました。

「先生の学生で、教育社会学にはまった人は伸びますね」

私は、大学院では教育社会学を専攻していましたから。教育社会学にはまるということは、私の世界に入り込んだ人、ということなのです。

私もそう思います。僭越ながら、私の世界に、私が面白いと思っていることを同じように面白いと思い、それに影響を受けて、はまっていく人というのは、伸びるのです。結果もでます。

そういう話をしていました。

もちろん、はまる対象は、私以外でもかまわないのです。とにかく、自分の「先生」を見つけて、その先生の世界にはまることができた人じゃないと、伸びるのは難しいというような話をしていたんです。

それで今日、内田樹さんの『街場の教育論』を読んでおりました。次のような一節がありました。

「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。(155頁)

いやあ、本当に驚きました。まったく同じことを言ってます。

というか、私自身、内田樹さんのように考え、そのような思考でしか分節されないように生きているのだから、当然かもしれませんが・・・

信じることができないと、学べないのだと思うのです。

それしかできないんじゃないかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学生からのサプライズ。

先日、非常勤で教えている予備校でサプライズがありました。

その日は、正規の課程の最終日でした。受験に必要な学習は終わってしまっていましたので、私の趣味の世界(とはいっても、学習にはなると思うのですが・・・・・・)でラカンについて学習をして、卒業論文の提出を控えている学生にはそのコメントをしておりました。

まあ、それはそれでおもしろい議論になったと満足していたら、サプライズです。

前期のみの受講生だった学生も教室に入ってきて、全員起立、「ありがとうございました!」のご挨拶が。いやあ、驚きました。だってここは、予備校でしょ?? 学校の卒業式じゃないから。

それで、皆さんからのメッセージの書かれた色紙と花束を頂戴しました。

いやあ、本当に驚きました。

温かいお一人おひとりからのメッセージを拝見いたしました。

その後、写真を撮ったのですが、さりげなくその色紙に貼ってくださっていたり。皆さんが協力して準備を進めてくださっていたのを感じます。

ありがたいことですねえ。

夜、帰ってきてから、スタッフにこのことを話しました。彼は一言、「教師冥利につきますねえ」と。そうですね。

皆さんが4月から、それぞれの進路でご活躍されることをお祈りしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「教え方」(?)のスタイル

どういうわけか、私は普通ではない存在だそうです。

私自身は、この自分と何年もお付き合いしてきたわけだし、これが当たり前だと思っているのですが、どうもそうではないらしい・・・(涙)。

まあ、人格に関わる部分はともかく、として、私の授業スタイル、教え方、学生さんとの関わり方が、普通ではないみたいです。

う~ん、ああいうメンバーがいたら、ああいうふうにしか授業はできないし、ああいうふうにしか、学生さんとは関われないと思うのですが・・・。他に、関わり方ってあるのかしら?? 私のスタイル以外に、方法はないと、本気で思っているのに。

どこが個性的なんだろう??

どなたか、教えていただけませんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系大学院受験者のための授業。

今晩は、教育系の大学院受験者のための授業です。

今年は、大学院で教員免許を取得されたい方、東京大学をはじめとした研究者養成コースをご希望の方、現職の教員の方等、いろいろな方々がいらっしゃるクラスです。

バックボーンが違う方がいるクラスというのは、多くの学びがあります。

クラスはスタートしたばかりですので、皆さん、まだ、馴染んでいないようです。

このようなクラスをコーディネイトとして、豊かな学びの集団を作ることも私の重要な仕事です。

がんばらなくちゃ。

クラスが終了する頃には、皆さんの合格と学びの集団が育っているよう、努力するのみです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育学の授業。

西洋教育史と小学校全科の音楽の授業をしました。西洋教育史と小学校全科の音楽を一人で授業してしまうのもどうかと思いますが、私は小学校の教員免許を取得していますし、中学高校はブラスバンド部だし、ピアノもやっていたし、ということで、音楽は細かな楽典も含めて、全然OKなのです。

ただ、あまりにも自明な科目というのは、教えるのが別の意味で難しいようです。私にとって音楽は、空気のような存在なので、音楽の様々なことが、すべてフラットに「易しい」のです。五線譜を読むことも、伴奏をつけることも、移調も、音程を応えることも、だいたい同じレベルに・・・。どこで皆さんがつまづくか、そのポイントの認識が弱いように感じます。

でもまあ、今日、授業をしていて、だいたい掴めたと思います。

ですので次回は、その「境界」あたりから確認のテストをしていきたいと思います。

次回は予告通り、日本教育史、音楽、図工、体育の確認テストから授業を始めます。その後、教育心理学の概説に入ります。GW中、しっかり学習を進めておいてくださいね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

当事者意識とマルクス主義。

内田樹さんの『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文藝春秋)を読みはじめました。本当に読みはじめたばかりで、まだ、「まえがき」しか読んでいません。

でも、この「まえがき」をご紹介したくなったので、書きます。

なぜこれほどまでに、「クレーマー」が多くなったのか(そういえば、『中央公論』でしたっけ、「一億総クレーマー社会」という特集があったと思います。この中のコンプライアンスについての論文は、本当に面白かったと思います)。

クレーマーたちは、当事者意識がないと内田さんは指摘されています。そして、当事者意識がない人たちは、「文句をつけること」で制度を改善しようとするのだといいます。

この点私は、非常に共感してしまうのであります。

私自身、当事者として責任をもってしなければならないことを持っています。そのときに、当事者意識を持たれない方から、いろいろおっしゃっていただくことがあります。そのときのことを思い出すと・・・(笑)。

さて、この当事者意識を持たない態度の代表が、むかし、「左翼」と呼ばれた方たちとされています。内田さんは以下のように書かれています。

マルクス主義の難点は、マルクス主義者には現社会の不具合については「当事者意識」がないことです。彼らの仕事は「可及的すみやかにこの社会秩序を転覆せねばならない」という階級的使命に尽くされますから。

社会秩序をどう持たせるかとか、どう使い伸ばすか、というようなことは彼らにとってはまるで問題になりません。

もちろん、すべてのマルクス主義者の方々がそうではないのでしょうが、内田さんが書かれているような批判の体質、当事者意識が欠如されている方も含まれているのではないでしょうか。

内田さんは、もちろん、マルクス主義者の「他責的な思想」の存在意義も認めています。ただしそれは、「あまり数が多くならない」ことを条件として、です。少数者だからこそ、生産的に機能できる、というわけです。

それはなぜか? 当たり前のことですが、その批判を受け止める「当事者」が必要だから、だそうです。

批判を受けたときに、「どうもすみません。何とかします」ということを自分の本務だと思っている人が一定数いないと、社会秩序は保ちません。批判が生産的であるためには、批判をまっすぐに受け止めて「ごめんなさい。何とかします」という人がいなければならない、ということについては譲るわけにはゆきません。

この「ごめんなさい」という人が、「当事者」ということですよね。

内田さんは、このような当事者意識を持った人が20%いれば、社会秩序は十分回っていくと言われています。

アジールの仕事を始めて、また、責任を持って何かを運営することが増え、当事者性について考えることが増えました。そして、何かを批判することよりも、自分で作り出し、運営していく方が、私自身の精神衛生上、いいなと思うことが増えました。

そういう意味で、決定的に私は、5年前と違っているように思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

社会人の皆様へ。

この春、大学院や大学の編入学で進学された方たちから、いろいろな相談が入ってきます。大学(院)に入られたばかりですからねえ、いろいろとご不安なこともあるのだと思います。

その中でも特に多いのが、社会人で大学(院)に入られた方々です。大学は社会人入試を実施していて、社会人の方への門戸を開いています。それはそれでとても大切なことなんですが、入学された後は、社会人だけの特別クラスがあるわけではありませんから、アカデミックに学んでいく場合は、ちょっと大変だと思うのです。

もちろん、社会人しかいない大学院の場合は別ですがね。

私も、自分の通っていた大学院で、社会人の方が苦労されているのをよく見ていました。

でも私は、こういう社会人の方にこそ、勉強をしてほしいと思うのです。学びたいという気持ちがある方が、一番、学べます。

悩んでいる方、一人で悩まないで、ご相談にいらしてください。必ず突破口は開けます。

学ぼうと思う気持ち、それを持つことが一番大変なことなのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分の存在理由を消去するために。

昨日取り上げた、授業で扱ったテクストです。
このテクスト、私はとても好きなテクストなのです。ですので、何度も授業で取り上げています。
何度か取り上げた思ったことですが。
どういうわけか、比較的学力の高い方の読みが、真っ向私とは対立するのです。どういうわけか。
皆さんは、このテクストを、どう読まれますか?

「子育ては苦役だ」という言い方も「子育ては至福だ」という言い方も、どちらも正しいと私は思う。
苦役でありかつ至福であるような経験。
もっとも人間的な経験はたいていそういう質のものである。
親の仕事の目的は、子どもが「親を必要としなくなる」ことである。
自分の存在理由を消去するために全力を尽くす。
そのような仕事だけが真に人間的な仕事である。
医者の理想は「病人がいないので、医者がもう必要でない世界」の実現である。
警察官の理想は「犯罪者がいないので、警察官がもう必要でない世界」の実現である。
それと同じように親の理想は「子どもが自立してくれたので、親の存在理由がなくなった状態」の達成である。
そういうものである。
いつまでも子どもが親の支援を必要とするような関係を作ろうとする親は、病原菌をばらまく医者や凶悪事件の発生に歓声をあげる警官と同じように、不条理な存在なのである。
子どもが成長することは親の喜びであり、子どもが成長して親を必要としなくなることは親の悲しみである。
喜びと悲しみが相互的に亢進するというのが人間的営為の本質的特性である。
楽しいか悲しいか、どちらかに片づけてくれないと気分が悪いというようなシンプルマインデッドな人は「人間に向いてない」と私は思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

作者の死、読者の誕生。

昨日の続きです。
同じ環境にいても学べることが違うというのは、学ぶ側に主体があるということ、もっというと、ロラン・バルトの「作者の死、読者の誕生」を意識した議論でもあります。
自分のことを書くのは手前味噌で嫌なのではありますが・・・でも、書いてみます。
私の小論文の授業を受けてくださった社会人の方が感想を話してくださいました。社会人としてのキャリアは、私よりもずっとある方です。
「先生の小論文の授業は、小論文の授業は、正解の枠を受講生に押し付けるのではなく、個人の中にある価値観や考えこそが正解で、それをどう論理的に相手に伝えるか、ということを学ぶ授業だったと思います。受験勉強のはじめにこの授業を受けたことで、勉強することが楽しく感じられるようになったのは大きな収穫でした。自分の感じ方や考え方を表現し、それを大事にしてもらう、という体験は受験勉強に役立っただけでなく、対人援助の仕事をしている私にとって貴重な経験になりました。また私のいい部分を引き出してもらいました。
先生の授業は、自分の思想や態度、伝えたいことを見直すいい機会になったと思います。自分が気付いていなかった自分に気付かされたというか。それが本来の学ぶということなんだと気付かされました。」
え。私ってばこういう授業をしてたんですか。
自分ではそういうような自覚って、ほとんどしておりませんでした。もちろん、いろいろと気を遣っていることはあるのですが・・・。
けれど、私の授業にこのような意味を与え、実際の私から以上のことを、彼は学んだと思うのです。
そして。
このように学ぶことが学びの本質なのではないでしょうか。
これは、文献からの学びに重なるものです。
同じ本を読んでも、そこから複数の意味を読み取り、テクストがもともと持っていたもの以上のことを学ぶことができるのです。
だから、「作者の死、読者の誕生」だと思うのです。
こういう敏感な、そして深い学ぶ力を持った方と出会えたことは、私にとって、非常にありがたいことなのであります。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

論文の感性。

今日も一日、いろいろなことがありました。
昨日、自宅に戻ることができなくて、アジールに泊まってしまいました。う~ん、そういうことをしてはいけないと思ってはいるのですが・・・。
でもまあ、ここに泊まると、朝の時間に余裕が生まれます。ちょっと早めに机に向い、学生さんの小論文にコメントを書いていきました。小論文の授業を初めて受けた方々のものです。なかなか皆さん、苦戦されています。
論文の書き方という点では苦労されている方々が多いのですが、感じ取る力では、本当に素晴らしい感性の方々に出会えてうれしく思っています。
前で授業をしていると、だいたい、わかるものです。適切なタイミングでうなずき、鉛筆を持たれる方というのは、論文の感性においても、素晴らしいものをお持ちのように思います。そういう方がクラスに一人でもいらっしゃると、話す方のテンションも上がってきます。今回のクラスにはそういう方が何人もいらっしゃいますから・・・だから、授業はきっとうまくいくでしょう。

コメント書きのあとは、小学生の授業。本当にかわいいお子さんなのです。いろいろと私に話しかけてくれます。ありがたいですね。

そして、外でもいろんな仕事をして、夜、アジールへ。
これから、いくつか文章を書かなくてはいけません。
もうひとがんばり。
がんばります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その場から、どれだけのことを学べるのか。

昨日書いた、学校の「選択」について、もう一言。
学生さんにうまく伝わっているかはわからないのではありますが、もう一方で私は、学校の選択には、正直、それほど敏感ではない部分があります。
う~ん、こういうことって不謹慎でしょうかねえ・・・
もちろん、できる限り、選択のための努力は払うのですが、でも、最後のところは「わからない」のだと思うのです。
客観的には、条件が整った学校というのがあります。
けれども、なぜか、どうしてもそこには行きたくない・・・ということってありますよね。
そういう直感って、大切だと思うのですよ。
教育系の場合、資格が取得できるというのは重要な要素になってきます。けれど、この直感を無視して、なじめないということもあるんじゃないかな、と。
ただ、もう一方で、どんなに嫌だと思っていた学校でも、入ってしまえば、そこで新しい可能性が開かれることもあるのです。
少なくとも、私の場合はそうでした。
希望していない学校、希望していない職場であっても、そこでこつこつ、地道にやっていれば、次にやらなくちゃいけないことが見えてくるのです。
そして私の場合は、そのすべての経験が、今の自分の仕事、人生に関わっていると思うのです。
どんな場所からでも、人間は学ぶことができます。こちらに学ぶ準備ができていれば。
だから、人によって、同じ環境にいても、学ぶ量が全然違うのですよ。
私は、そういうことの方が重要だと思っているのです。
ですので実は、学校選択にはそれほど神経を使っていません。
むしろ、今いる自分の環境から、どれだけのものを学べるのか。限りある自分のリソースを私は、そこに配分するようにしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コルチャック先生。

今日、ひょうんなことから、映画「コルチャック先生」を観ました。まさか、観ることになるとは。意外だったのですが。
この映画、以前に観たことがあるし、日本語になっている関連本はだいたい読んでいるので・・・でも今日も、真剣に観ました。
以前観たときには、私の中で教師という役割を占めていた部分が今ほどは大きくはなかったんです。でも今は、かなりの時間を私は教師であるし。そして、彼と同じく、自分が経営トップで経営をしなければならないので・・・おこがましいとは思うのですが、自分を重ねてみてしまうところが多々ありました。
教師として。
私はあそこまで、子どもたちに必要とされているかな、と思うと、正直、心もとないところがあります。もちろん、状況は違いますが。
経営者として。
前回観たときは、この点をあまり自覚していなかったのではありますが。
彼は、子どもたちのために食糧やお金を集めに奔走します。思うのですが、今の私の立場も、そういうところがあるんですよね。もちろん教師としての仕事はするのですが、アジールの教育環境を良くするために、スタッフが少しでも質の良い教育実践を行うことができるようにするための環境を整えるのが私の仕事でもあるのですよね。
そう思うと、資金繰り、人事、・・・そういった直接教育にかかわらない仕事を引き受ける重要性を改めて感じるのです。
コルチャック先生は、「子どものためなら悪魔とも会う」と言っていました。そういう心境、わかるのですよ。
そういう彼に対して、「先生は誇りが無いんですか」と周りは言います。
誇り。
そういうものはなくてもいいんだと思うのです。私も。

もちろん、子どもととも生き、死を選んだ彼の生き方を襟を正す思いで受け止めた上で。
あまり一般的ではない感想でしたが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

死刑制度。

先日に続いて、『論座』からです。
「死刑制度」についての特集を読みました。
この中の、元刑務官の方の記事、すごいです。
あまりにもリアルで・・・。
改心した死刑囚が処刑されていくということ。
ぜひ皆さんに読んでいただきたい記録です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『論座』のポスト・ロストジェネレーション

『論座』3月号のこの特集を読みました。
これに掲載されている当事者座談会はぜひお読みいただきたい内容です。
正社員組と非正社員組の発言の違いに驚かされます。
個人的は、Cさんに関心を持ちましたが・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小論文の授業。

今日から小論文の授業が始まります。まったく初めての方向けの授業です。
最初の授業というのは、緊張します。どういう方がいらっしゃるかわからないので、どこに焦点を当てて話していいかわからないからです。易しすぎても難しすぎてもだめですし。おまけに、分野も様々ですからねえ・・・。
一定の論文の書き方の「型」というものがあります。これはきっちりマスターしてほしいと思うのです。
けれども、この型にだけとらわれていてもいけません。型を習熟した上で、崩す、というのが大切なのです。それが個性にもなりますし。
続きは授業で話しましょう・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

LEC大学

のことが、知人と話題になりました。

う~ん、ここまで一気に縮小してしまうんですね。さすがにフットワークが軽いというか。

いろいろと考えさせられるケースです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教職大学院。

ちょっと古い話題なのですが(汗)。
来年度4月に開講予定の教職大学院についてですが、1月27日付の日本経済新聞では「教職大学院の人気低調、国立の約半数で募集定員下回る」という記事が掲載されています。
う~ん。こうなりましたか。
まあ、教育系の大学院に行きたいという方を教えている私の周りでも、一人も教職大学院を受験された方がいらっしゃいませんでしたしね。あ、そうか。私自身も全然進めていなかったか(汗)。
でも、今の時代にはあまりメリットがないと思うんですよね・・・。
教員免許を持っていない方の場合、もちろん教職大学院に行っても、ねえ、仕方がないですよね。実際私の周りでは、大学院で教員免許を取得したいという方が圧倒的に多いですから、そういう方には教職大学院はお勧めできません。
もちろん、アカデミックな研究をしたい方には不向き。
そして、免許をお持ちの方の場合は、今は小学校だったら、教員になりやすいですからね。採用試験を受験されているんだと思うんですよ。
ですので、例えば東京都が行おうとしているように、何らかのメリットがなければ、皆さん、教職大学院には行かないのではないでしょうかねえ。
東京都は、「東京都における教職大学院の活用について」で以下のように書いています。

  • 教職大学院修了者の採用に当たっては、資質・能力を適切に評価した上で、小学校及び中学校の一部教科において、特別選考により採用することを検討する必要がある。
  • 初任者研修については、一部免除を検討する。

特に前者、採用の段階でのメリットといった具体的なものがないと、皆さん、教職大学院には行かれないのではないんじゃないかしら。
そういえば。
昔、専修免許状ができた頃、大学に専攻科ができましたよね。専攻科に進学したら、1年で専修免許状が取得できるわけですから、修士課程で2年間学ぶよりも「おいし」かったわけですよね。そしてその当時は、首都圏は小学校でも採用試験の倍率が高く、就職が大変だったと記憶しています。
にもかかわらず――。
当時、専攻科に進学された方は少数だったと記憶しています。
そういうものだと思うのですよ。
やはり、採用になんらかの特典があったり、そこに特権化されたものがなければ、現実は難しいのではないでしょうかねえ。
まあ、今は、当時と比べると、専修免許状が一般化していますが。でも、すぐになれる先生の就職と比べると、それに勝てるだけの魅力はないと思うのです。
・・・とまあ、他人事のように教職大学院をみてきました。教員養成については個人的な意見もいろいろあるのですが・・・。またの機会に書きたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

「労働」をしている人は、優しい。

古い記事なのですが、内田樹さんの「創造的労働者の悲哀」という記事を読んで、「感動」したので書きます。っていうか、前に読んで、自分の講義で学生さんに紹介までしていて、すっかり忘れていたのです。改めて読んでみて、書きたくなりました。Tさん、あなたの論文の締切前にご紹介できれば、なおよかったですね。ごめんなさい。

まず、ニート・フリーター問題(今だったらおそらく、ワーキングプア問題も含まれるでしょうね)について、内田さんはこう述べられています。

「働きたいけれど働く先がないのだ。これは個人の決断や趣味嗜好の問題ではなく、アンフェアな社会構造のもたらす問題である」というのがニート・フリーター問題における「政治的に正しい」回答である。
申し訳ないけれど、私はこの考え方の「働きたいけれど」という部分に実は留保を加えている。

もちろん、アンフェアな社会構造ではないと私は主張するつもりはありませんが、「働きたいけれど」という部分に留保を加える内田さんの主張に私は共感しています。
内田さんの主張は、次のように続きます。

働きたいのになかなか仕事に就けない若者は「自分に向いた仕事、自分の適性や能力を発揮できる、クリエイティブで、見栄えがよくて、できれば賃金の高い仕事で」働きたいという条件に呪縛されているからである。
残念ながら、若い人に提供される就職口の中で、そのような条件を満たすものは1%もない。
99%の就労者は「自分に向かない仕事、適性や能力を生かせない仕事、創造性のない仕事、見栄えの悪い仕事、賃金の安い仕事」のどれかまたはすべての条件を満たす仕事を選択しなければならない。
だから、彼らがある日ふと「もう会社行きたくないな」と思ってしまうのは当たり前田のクラッカーなのである。

99%の就労者は、「自分に向かない仕事、適性や能力を生かせない仕事、創造性のない仕事、見栄えの悪い仕事、賃金の安い仕事」のどれかを選ばなくてはいけないのです。だから、そうでない仕事を求めて次から次へと仕事を変えていっても、そんな「自分に向く仕事、適性や能力を生かせる仕事、創造性のある仕事、見栄えの良い仕事、賃金の高い仕事」を満たす仕事に出会える確率は、相当に低いのではないでしょうか。
にもかかわらず、そういった仕事につくことを目指していること、そこに「悲哀」があるのだと思うのです。
私がアジールに出勤してくるのは、たいてい朝の8時30分頃。ちょうど毎日、ごみ収集の車が走っている時間帯です。ごみを収集車に入れる人は、いつも走っています。走ってごみを取って、ごみ収集車に投げ入れているのです。
このような仕事は、「自分に向く仕事、適性や能力を生かせる仕事、創造性のある仕事、見栄えの良い仕事、賃金の高い仕事」と言えるでしょうか。多くの人は、NOと思われるでしょう。
しかし、彼らがいないと、町はどうしようもなくなってしまうのです。彼らが1日だっていなかったら。この狭い通りは、ごみの山になってしまうでしょう。
仕事というのは、こういうものなのではないでしょうか。
しかし、若者の多くは、仕事をそのようなものとは捉えていません。内田さんの記事はこう続きます。

仕事を彼らは「自己表現」のようなものだと考えている。
だから、気むずかしい芸術家が途中まで仕上げたキャンバスを「こんなものは私の作品じゃない」といってばりばりと引き裂くように、「こんなものは私の仕事じゃない」といって蹴飛ばすことが当然だろうと信じてしまうのである。
なるほど、労働が自己表現であるならば、そのようなふるまいはたいへんつきづきしいものである。
しかし、残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。
とりあえず労働は義務である。
現に、「すべて国民は、すぐれた芸術作品を創造する権利を有し義務を負う」という規定は日本国憲法のどこにもないが、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」ということは憲法27条に明記してある。
労働は国民の義務なのである。
「条件が揃っていれば働いてもいい」というような贅沢を言える筋の話ではないのである。
「とにかく、いいから黙って働け」というのが世の中の決まりなのである。

「とにかく、いいから黙って働け」私もそう思うのです。そして、子どもたちにとっての勉強も、そういうものかもしれません。

なぜなら、人間はなぜ労働するのかということの意味それ自体が労働を通じてしか理解されないからである。

そうなのです。学ぶということも、学ぶことを通じてしか理解されないものなのですから。本気で学んでいない子どもに、学ぶことの意味はわかるはずがありません。そして、学びの意味は、説明しても伝わるものではないのです。「それ自体が学びを通じてしか理解されない」のです。

これについてはヘーゲルの理説を引くのが捷径であろう。
「人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけである。人間自身が現実に、客観的に自然的存在者以上のものであり、それ と異なったものであるのは人為的対象を作り出した後であり、人間が自己の人間的かつ主観的な実在性を真に自覚するのは、ただこの実在する客観的な所産にお いてである。(・・・)労働することによって人間は精神を『体現』し、歴史的な『世界』となり、『客観化された』歴史となるのである。」(アレクサンド ル・コヴェーヴ、『ヘーゲル読解入門』)

別にむずかしい話ではない。
小説を書かない作家、音楽を演奏しない音楽家というのが論理矛盾であることは誰にでもわかる。
「いいから、まずなんか書いて見せてよ」とあなただって言うだろう。
「それを読んで、どの程度の作家だか判定するから」

ちょっと余談ですが、ここにも私は共感しているのです。
大学院進学を考えている学生さんと話していて、時々、研究論文はもちろん、卒論だって書いていない方が、研究者になりたい、と言われます。
せめて1本、研究論文を書いてみてほしい。研究者というのは、研究論文を書くことが仕事です。それを一度もやったことがない人が、どうしてそれを一生の仕事として選びたいと思われるのでしょうか。書いたものがあって初めて、いやせめて、今、書いているという作業があって、研究者が目指してほしいと思うのです。
さて、話を戻して。

労働だってその点では同じである。
「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。
「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」
人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定される。
能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見されるのである。

これもまさに、そうかもしれませんねえ・・・。
私自身も、「主観的にそうありたい」という願いと、他者の評価、事後的に決定されたもの、は大きく異なっています。
けれど最近、思うのですよ。
今、与えられた仕事が自分のミッションである、と。
それはある意味、切ないものではあるのですが、でも、そのミッションによって、新たに生み出されたものもあるのです。それを大切にしよう、と。

それに、自己表現としての芸術創造よりも、労働の方がずっと達成度についての判定は「甘い」。
だって、芸術の場合は「他人と同じこと」をしたら、それがどれほど高度の技術や熟練や努力の成果であったとしても「無価値」と判定されるからだ。
でも、労働の場合は「他人と同じこと」をしても、それが客観的に有用なものを生み出している限り、高い評価を得ることができる。
麻雀の用語を用いていうなばら、芸術は「アタマハネ」であるが、労働は「ダブロンあり」なのである。
労働は達成感を容易に得ることができる。
芸術はそれに比してはるかに要求が苛烈である。

労働の方が芸術よりも容易に達成感を得ることができる。これも実感できます。
労働の方が、達成感を得られるのですよ。
だったら、芸術にこだわらなくてもいいんじゃない、労働を一生懸命やってもいいんじゃない、と思うのです。達成感がある方が、病気にならなくてすむんじゃないかしら?

そして、まことに不思議なことに、今の若い人々は労働を「義務」だと考えることを忌避し、それがまるで自ら進んで自己実現のために行う「創造」でなければならないと信じ込んでいるようなのである。
それではたしかに、ご本人にとっては苦しいことであろう。
「義務」を果たしている人に周囲は優しい(いやなことに耐えているわけだから)。
「創造」に苦悩している人に周囲は冷たい(頼まれてもいないことに血道を上げているわけだから)。

「義務」を果たしている人は周囲に優しい。
皆さんは私のことをどう思われているのでしょうかねえ。私自身は、優しくなったと思うことが多いのです、実は。いかがですか?

久しく労働は(主観的には楽しくても、制度的には)義務であり苦役であった。
しかし今、労働は創造となった。
そのせいで仕事をする人々はその定義上、仕事をつうじて絶えず自己実現の愉悦と満足にうちふるえていなければならなくなった。
苛酷な条件である。
絶えず創造し続け、絶えず快楽にうちふるえていなければならないという重圧に耐えかねた創造的労働者たちの中から「自分らしい作品ができないくらいなら・・・」と沈黙と無為の道を選ぶようになる者が出てきても怪しむに足りない。
ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。
東大生たちはあるいは「創造的労働者であること」「余人を以て代え難い唯一無二の労働者であること」により強い動機づけをなされているのかも知れない。
そうだとすれば、彼ら自身が不安に思っているように、遠からず東大卒がニートやフリーターになる可能性は予測される30%に限りなく接近することになるだろう。

                                                                                                                                                                                                         
自己実現欲求が生み出したフリーターやニート。
さらに論を進めると、そういった自己実現の「像」だって、一生懸命作り上げている部分があるのではないでしょうか。
自己実現、自分の適性なんていうものは、そんなに簡単に、そして、固定的なものとして見つかるものなのでしょうか。自分が何をしたいのかわからない、その方が正直な自己理解なのではないでしょうか。
けれど昨今、特にキャリア教育の分野では、自己実現が強く語られています。そのために、「個性」が煽られてしまっているのです。しかし今更、「自分らしさなんてない」と言えない若者たちは、それで悩んでいます。
でもいいんですよ。「自分らしさ」なんて、言えなくたって当然です。
それなのに、自己実現をしようと考えると、「自分らしさ」をでっちあげることになる。そして、「でっちあげた自分らしさ」を実現しようとすると、内田さんが書かれたような「悲哀」にはまっていくのではないでしょうか。
労働を「義務」と受け止めること、そしてその前提として、「自分らしさ」追求にはまりすぎないこと(もちろん、お持ちの方はそれでいいんですけれど)。こんなことが大切なのではありませんか。
私はそう思うのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「商品」にならない「教育」。

ビジネスマンに大学は経営できるのか?」と題された内田樹さんのブログからです。

                                                      
                              

ご案内のとおり、日本の大学は数年前から淘汰プロセスに入っている。
その一方、大学設置基準が緩和されたせいで、新設大学、新設学部学科はラッシュ状態である。
しかし、私自身はこの数年に相次いで登場した新設大学、新設学部の相当数は遠からず経営破綻するだろうと予測している。
2007年4月に開学したばかりのサイバー大学(ソフトバンクが出資した、すべての授業をインターネットで行う大学)に文科省から勧告が入った。
620人いる在学生のうち180人について本人確認をしないで単位を与えようとしていたせいである。
いちいち福岡まで来てもらって、面接をして本人確認をするような手間ひまをかけるならインターネットを活用しているメリットがないと判断して、本人確認を怠ったのであろう。
なるほど。
ごもっともな判断である。
だが、サイバー大学の経営者にひとつお聞きしたいことがある。
みなさんだって、本人確認をしないでクレジットカードを渡すクレジット会社とか、本人確認をしないで書留を手渡す郵便局とか、本人確認をしないで定期預金の解約をする銀行とかは「信用できない」と判断されるであろう。
私だって信用しない。
ではどうしてみなさんは本人確認しないで大学の単位(それは学位とともに、大学の信用供与のしるしである)を出したのか?
理由は簡単である。
単位を「商品」だと思っていたからである。
値段が折り合うならその商品を買い取りたいというクライアントがいる。
買いたいというのだから、売ればよい。
スーパーにキュウリを買いに来た客に「本人確認したいから身分証明書を見せろ」とは誰もいわない。
キュウリをどう料理しようと、刻んでパックにしようと、河童釣りの餌にしようと、それはクライアントさまのご自由であって、売り手のあずかり知らぬことである。金さえきちんと払ってくれれば、ノープロブレムである。
「単位が欲しい」という客に単位を売って何が悪いという理屈である。
それは「学位が欲しい」という客に学位を売って何が悪い・・・という理屈で「ディプロマ・ミル」(学位工場)というものがアメリカにたくさんあるのと同断 である(日本にも出店がある。先週の『週刊現代』でそういう大学で学位を買った大学教授たちの実名リストが出ていた・・・そういえばサイバー大学の学長も そのリストに名前があった)。
ビジネス的にはそれでぜんぜん悪くない。
ご案内のとおり、単位なんてただの数値である。
それを124コ集めると「学士号」というものと交換できる。
コープさんのポイントカードみたいなものである。
ただの数値を金を出して買いたいという奇特な買い手が現にいる。
だから、売りましょうという人が出現する。
市場の自然である。
それは合法的かどうかは知らないが、間違いなく「ビジネス」である。
けれども、私はそれを「教育」とは呼ばない。
教育というのは知識や技術を「ばら売り」することではないからだ。
知識や技術の伝授という外形的な関係を経由して、「それとは違うこと」を学ぶのが教育である。
知識や技術は商品化できる。単位も学位も商品化できる。
けれども、「それとは違うこと」は商品化できない。
それは師弟の対面的な関係の中で一回的に生起し、師弟二人のほかに誰もが経験することのできない唯一無二の「出来事」だからである。
誰にとってもその有用性や価値がわかっているものだけが「商品」になる。
一方、弟子はその師から「私以外の誰にもその有用性や価値が理解されないもの」を学ぶ(そうでなければ、「私」がこの世に存在し、その人の弟子である必要がないからである)。
だから、師弟関係で授受されるものは原理的に商品にならない。
そういう基礎的な知見をわきまえないビジネスマンたちが教育事業に参入してきた。
教育の真のコンテンツは「商品化」できないということに彼らはいつ気づくのだろうか。
たぶん自分たちの大学がつぶれたあとになっても、気づかないだろう。

教育という仕事は、決して商品化できないのです。

私自身、教師としてそのような師たりえているのか。自問しました。

この師弟論を読んで、『他者と死者』の師弟論を読みたくなりました。

弟子が師から学ぶのは実定的な知識や情報ではない。聖句から無限の叡智を引き出すための「作法」である。もし師が知識や情報を教えたのであれば、優れた弟子であれば、どこかの段階で師を凌駕し、師を軽んじることもありうる。しかし、タルムードの師弟関係ではそのようなことは起こり得ない。というのは、弟子が師から学ぶのは、師がさらにその師から律法を学んだときの「学ぶ作法」だからである。(52頁)

ここまで読んで、わかりました。

だから、私に「はまった」学生さんは、伸びるのです。受験もたいてい合格されます。

しかし、はまらなかった学生さんは、難しいのです。

もちろん、相性がありますから、「はまる」相手は、私でなくてもいいのです。でもどこかで、はまらないと、人は伸びません。学ぶことはできませんから。

日々、仕事に追われていて、そして、経営の仕事の比重が大きくなっていくにつれて、このような議論を忘れていました。

気をつけないと、私もサイバー大になってしまう。

自分を引き締めなくては。

そして、私自身が、学生さんにそのような「師」として選んでもらえるような存在にならなくては。

幸い私は、いつの時期にもそういう「師」に出会えてきました。本当に幸せなことです。

「師」とは、「完全」な存在です。『他者と死者』にはこう書かれています。

私たちが師から学ぶのは何よりもまず「完全」という概念である。極論すれば、私たちが師から学ぶべきなのは「完全」という概念だけで足りる。「完全なる師」という概念をリアルなものとして実感し得ない弟子は、どれほど勉励しようと、どれほど忠誠を尽くそうと、「他者としての師」に出会うことができない。それはとりもなおさず、テクストから無限の叡智を読み出す仕方を学ぶ機会を逸するということである。(57頁)

そういえば。

この子は伸びるなあと思っている子は、「完全」ということをちゃんと学んでいます。彼は、この私でさえも、「完全」な存在だと思っています。

だからきっと、彼は、伸びるのだと思います。

もちろん私は、「完全」な存在ではありません。自分でもよくわかっています。私は本当にどうしようもない、欠点だらけの人間です。能力も低いし。

けれど、教師という「役割」のときには、「完全」な存在として子どもたち・学生さんたちの前に出なければならないのです。役割として「完全」を背負わなければいけないのです。

厳しい仕事です。

でも、それが教師の仕事なのだと思います。自分は「完全」でなくとも、子どもたちを育てるためには、それを背負わなくてはいけないのだと思うのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

祝!提出。

アジールで修士論文作成をサポートしている大学院生の学生さんが、本日、無事に、修士論文を提出されました。おめでとう。本当に御苦労さまでした。

彼女との最後の指導のとき、もう大丈夫、という安心感はありましたし、そのときにも、一区切りついたな、という気分にはなったのですが、やっぱり今日、無事に提出されたというのを聞くと、本当にほっとします。

本当によくがんばりましたね。

アジールで彼女の修士論文サポートをお引き受けしたのが修士2年になったばかりの4月。1年弱の指導期間でした。ここに至るまで、いろいろなことがあって、本当に大変だったと思います。

でも、コンスタントにアジールに通ってきてくださいましたから、論文作成の計画も立てられ、そして、それにちゃんとついてきてくださいましたから。私は大丈夫だと思っていましたよ。まあ、これから口頭試問ですが。でもこれもちゃんと、乗り越えてくださることでしょう。

私は、修士論文ぐらいまでだったら、きちんと指導をすれば、誰にでも書けるものだと思っています。私の先生は、「卒論は誰にでも書ける」とおっしゃっていました。今は学歴が上がってきていますからね。当時の卒論に対して言われたことは、今の修士論文、特に博士課程に進学されない方の修士論文にあてははめて考えてみても、そんなに違わないんじゃないかしら?

「修士論文は誰にでも書ける」のです。

それは、学術論文には、決まったフォームがあるから。そのフォームにのっとって、ひとつひとつ、丁寧に、こつこつと作業をしていけば、論文になるんです。

学部3年のときに、指導教官からいただいた葉書に、「君は論文というものを誤解している」と書かれていました。今思うと、誤解も何も、大学3年生ですからねえ、何も知らなくって当然かとも思うのですが、先生! 葉書には、このようなことが続いていました。「論文というのは、何か大きなことを言うものではなくて、こつことと重ねた作業の上に、何か一つ、言うことができたら、というようなものなのですよ」。正確な表現ではないのですが。

自分が何本か論文を書き、また、書いた本数よりもはるかに多くの論文や研究計画書の指導をしてきて、この先生の言葉の意味はよくわかるのです。

こつこつ作業をしていけば、論文は誰にでも書けます。作業を、学術論文のスタイルに忠実に従って重ねていくのです。

そんな作業ばっかりじゃ、個性的な論文なんて書けないんじゃない? そう思われる方もいらっしゃるでしょう。学術論文というのは、オリジナリティがなければいけない、と一般的には言われていますから。

でも、大丈夫です。一般的な形式に自分を合わせようと、本気で、一生懸命努力しても、どうしてもはみ出してしまう部分があるのです。どんなに、努力しても、です。

これがその方のオリジナリティだと思うのです。

誰だって、どうしてもそういう部分があります。だから、大丈夫なのです。

現に、同じ私が指導していても、出来上がる論文は本当にさまざまです。みな、全部、違うのですよ。

でも、当然学生さんは、学術論文のスタイルというものを知りません。だから、丁寧な指導が必要なんですよね。逆にいうと、丁寧に指導をすれば、誰にだって書けるのです。

これも私の先生が言っていたことなのですが、論文を一本書き上げると、学生さんの表情が変わります。自分のテーマを持ったからですよね。自分の「顔」ができあがるのですよ。

そうやって一皮むけた学生さんを見るのが私は好きなのです。

なので、アジールでは、通信制大学で卒論が必修でなくても、卒論を書くことをお勧めしています。私が大学を作ったら、もちろん、卒論は必修です。

この卒論は、研究者になるためではなくて、学生さんが、自立し、学的に思考する仕方を修得する上で必要なことだと思うからです。

Tさん、本当に御苦労さまでした。今日はゆっくり休んでくださいね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

既知を超えるということ。

先日、「学習に手前にあること」という記事を書きました。これを書きながら思い出したことを、加えて書きたいと思います。
私は、主に教育系の大学生・大学院生を教えているのですが、伸びる人には共通点があるように感じます。これは、私が指導した場合の伸びる方のタイプであって、他の先生だったら、このようなタイプでない方でも、当然、伸びるのかもしれません。ただ、私の場合には、傾向があるように感じるのです。
それは、私に学習の方向性を委ねることができているか、ということなのです。
なんか、こういうふうに書いてしまうと、自分にさも自信があるように感じられてしまうかもしれませんよね。でもそれは本意ではなくって。決して私はそういうふうに思っているわけではないのですが、でもなんか、そういう方の方が、良い結果を出されているように思うのですよ。
例えば、教育系の入試(大学院入試や編入学の試験、通信制大学のレポートや科目修了試験等々)の指導をしているときに、私にかなり方向性を委ねてくださる方と、ご自分で徹底して傾向を分析して、こういう内容の指導をしてほしいと細かくご指示くださる方とがいらっしゃいます。私としては、どちらでもかまわないのですが、でもどういうわけか、圧倒的に前者の方の方が、合格率が高いようなのです。
いったいどうしてでしょうか? 後者の方の方が、ピンポイントで絞られた学習をしているわけですから、良い結果に結びつくと思いません? でもどういうわけか、そうではないのです。
これは、私との相性の問題でしょうか?
確かにそういう側面も無いとは言い切れません。けれど、それに留まらないものがあるのではないかと思うのです。

これは、まさに学習の根幹に関わる部分なのかもしれません。

そもそも学習というのは、自分が未だ知らないことを学び、自分のものにするということですよね。学ぶことは未知のはずなのに、その内容について、細かくチェックすることは可能なのでしょうか?

たぶん、ここが違いなのだと思います。自分がチェックし、納得した内容ということは、すでに自分が知っていたことになるのではないでしょうか。自分が知らない内容についていは、評価をすることは難しいですから。

なかなか先生に身を委ねることができない人というのは、自分の既知の中に留まっているように思うのです。

だから、とりあえず、先生に身を委ねることができた人、そういう身体を獲得した人は、私との関係性だけでなく、他の様々な場面で、多くを学ぶことができると思うのです。それが良い結果につながっているのではないでしょうか。

私は、こういう学び方を学生さんに伝えたいと思っています。

私の学生さんたちは、いずれ、私のもとを離れなくてはいけません。もっというと、私のもとを離れていって、自分で学べるようになることが一番大切なことなのです。そういう意味ではアジールがなくなった方が良いのです。

自分の存在を消すために私自身は仕事をしているのだと思います。いつまでも「先生」がいなくてはだめな子ども・学生を育ててはいけないと思うからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系大学院の入試について。

昨日も寒かったと思いますが、今日も寒かったですね。アジールでは、エアコンと遠赤外線ストーブをがんがんつけておりました。私はこの遠赤外線ストーブがお気に入りです。エアコンだとどうしても喉がやられてしまって。確か去年はエアコンのせいで、声が出なくなりましたからねえ。

ところで。
教育系大学院の入試について質問がありました。教職大学院も来年度から開講されますし、教育系で大学院進学を考える方は多いのではないでしょうか。諸外国では、教員養成のスタンダードが大学院になっている国もあります。勉強をしたいと思う方には、ぜひ、大学院に進学されて、深く学ばれた上で、先生になってほしいなあと思います。

ところで今日質問があったのは、「他大の大学院に進学するのは不利か?」というご質問です。私も他大の大学院に進学していますから、不安になるお気持ち、よくわかります。けれど、まあ、私自身も他大の大学院に進学していますし(笑)、結論から申し上げると、全部が全部、不利というわけではない、ということになると思います。
もちろん、完全に平等というわけにはいかないでしょう。そのまま学部と同じ大学院に進学される方の場合には、卒業論文の指導をしてくださった方が大学院での指導教官になることが多いでしょうし、先生のご専門や関心領域がわかっている場合が多いですから。
でもだからといって、他大からの進学が圧倒的に不利ということでもないと思うのです。
私が指導した学生さんは、同じ大学ではありましたが、違う学部の方でした。知っている先生がいないという点では他大と同じような状況だったと思いますが、見事、合格されました。その学生さんからの情報では、同じ学部の方の中に不合格だった方もいらしたそうです。
他にも、他大から、O教育大、F大、Y国立大、T教育大、C大といった国立大学に皆さん、合格されています。もっとありますが、省略。略してしまった大学院に合格された方、ごめんなさい! 教育学部や教育学科を卒業された方もいらっしゃいますが、多くは他の学部からです。他の学部・他の大学からでも、ちゃんと対策をすれば、国立の教育系の大学院に進学することは十分可能なのです。
でももちろん、「ちゃんと対策すれば」ですよ。卒業論文をきちんと書いて、研究計画書や志望理由書をちゃんと書いて、過去問対策をして。
でもこういったことは、コツがありますから、他の学部出身でも、できるようになることなんですよ。
あきらめないで、ぜひチャレンジしてほしいと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大学版・国際学力調査。

ネットニュースを見ていたら、大学版の国際学力調査に日本も参加するという記事が。PISA学力調査を実施しているOECDが導入を検討しているそうです。記事によると、本格実施は2010年以降、結果の公表は大学ごとに発表。工学や自然科学、経済学などの国際比較が可能な分野で、分析力などを調査することが検討されているそうです。
いよいよきましたか、という気分です。日本でも、大学生のための認定試験のようなものの導入が検討されていますよね。
これは非常に難しい問題です。否定することは簡単でしょうけれども、私自身は、アンビバレントな感情をいただいています。ですので、簡単に自分の主張が決められないのです。
皆さんはどうお考えになりますか。ご意見をお聞きしたいものです・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学習の手前にあること。

今日、学生さんとこういうことが話題になりました。
学習の手前にあることがあるんじゃないか、と。

私はアジールで、主に教育系の学生さんを教えています。
それで感じるのは、もちろん人によって違うのですが、ピンポイントで、レポートや試験対策を行うだけではだめだ、ということです。
その課題についてのレクチャーをすれば、まあそれなりに、レポートを書くことはできます。
でも。
それだけじゃだめなんです。
それでも私は比較的余裕をもって、その課題の周辺のことも話しながら、課題を深めていくよう指導しているつもりです。
でも、それでもだめなんです。
そこで学生さんが言われていたことなのですが、直接的に課題に関わるものではなくて、その前提になっているもの、それを教養と呼ぶかどうかは別ですが、その何かが無いということが、学習を妨げているように思うのです。

それは、もちろん狭義の教養でありましょし、基礎学力でもありますよね。また、勉強に向かう気構えみたいなものでもあるかもしれません。
いずれにせよ、そのようなものがあるか無いかが、決定的に学習の質やスピードを決めているように思います。だから問題は、その一つの課題についての知識や論文の書き方を知っている、というレベルのことだけでは済まないのです。
これは本当に、身につけるのが難しい問題です。でも、一旦身につけてしまえば、かなり応用の範囲は広いのではないかと思います。
だから、勉強ができる人は、たいていどの一定程度、できるのだと思います。
そういう勉強の手前にある力を身につけることが大切だと思うのです。
だから、学生さんにお願いしたいことは。
あまりに短い時間のスパンで、直接役に立つことだけを求めないでほしい、ということなのです。すぐに役に立つことがわかっていないことでも、私のことを信じて、ついてきてほしいのです。そういう学習の中で、学習の手前にあることが身につくと思うからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文学の話。

 久々に今日、文学の話をしました。

 もともと私は、文学理論に関心を持つ者ではあるのですが、ここ最近、時間が取れなくて、そちらの学習が進んでいません。残念だとも思うのですが、私自身の選択で後景に押しやっているものですから、まあ、それもいいかな、と。
 が、ひょんなご縁で、今日は、大学院で日本文学を専攻されたいという方とお話しすることができました。ここぞとばかり、最近の文学理論、特にテクスト論についてお聞きしました。
 私自身は、ロラン・バルトや佐藤信夫に関心を持っています。まだまだ読みこなせていない部分も多いのですが、それほど的外れでもなかったようです。とい うのは、私の文学理論は全くのど素人ですから。いつか、系統だてて文学理論を学びたいと思ってはいるのですが。勝手な関心で読みつないでいるものですか ら、これでいいのかな? と、常に不安なのであります。でもまあ、そんなに外れてもいなかったみたい。ああ、良かった。
 時間は作るものですからねえ。少しずつ、また、読み進めていきたいですねえ。
 私にとっては、教育学を考える上で、文学理論が必然なのですし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系大学院の入試対策④

このシリーズの最後は、研究計画書についてです。
でも、書いていてちょっと疲れたので、短めです(汗
何か、ご心配なことがある方は、ご連絡ください。
もちろんコメントでもOK。ブログ上でお応えしていきますよ。

4)研究計画書

教育系の大学院、いずれのタイプでも、当然、研究計画書の提出が求められます。

ただ、研究計画書で求められているもの、ボリューム等は、大学によって異なってきます。これまで述べてきましたように、教育系大学院は多様化しています。ですので、大学院の設置目的や専攻の性格を理解して、研究計画書を作成することが求められます。

また、研究計画書の他に、「これまで関心を持って取り組んできたテーマ」についての記述が求められるケースも少なくありません。まだ卒業論文を書かれていない方、学部で教育学を専攻されていなかった方はとまどうかもしれませんが、この部分も軽視しないで書いてほしいと思います。特に、他専攻から教育系の大学院を志望される場合、修士課程での研究との連続性について、口頭試問で問われたということをよく耳にします。教育学は実に多彩な学問です。他専攻からでも、十分連続性のある研究計画書を作成することが可能です。早目にご相談いただければと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系大学院の入試対策③

今回は、白紙の状態から大学院での教員免許の取得をめざす「教員プログラム」の試験についてご紹介です。修士課程に合格できても、このプログラムの試験に合格できれば、教員免許は取得できませんから。とても大切な試験なんですよ。当然ですけど。

3)小論文;教員プログラムの試験

教員免許を取得するための教員プログラムでは、小論文の試験が課されるケースが多くあります。出題の傾向は、専門論文とは異なっているように思われます。専門論文では当然、専門的な知識の有無が問われますが、教員プログラムの小論文では、教師としての資質が問われるような出題がされています。また、具体的な教育の場面を想定したものもあります。

このような問題に対して、何を問われているのかわからない、どのような対策をしていったらいいのかわからない、というご相談をよく受けます。具体的な教育実践のイメージを広げていくために、現場の先生が書かれた実践記録を読んでいくことが一つの方法だと思います。実践記録には、生きた現実の子どもの姿と、そこで格闘している教師の姿が描かれています。

そういうわけなんですよ。

そうだ! 今度、古典的なものも含めて、実践記録の紹介の連載をしていきましょうかね。

若い皆さんに、実践記録を読んでほしいですし。

あ、でも私も、めちゃ、若いんですよ! 本当は!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

理想の教育。

アジールの「建学の精神」をどこかで書かなくちゃとは思っていたのですが、なかなか書けないでおりました。

ほら、よくあるでしょ。

うちは、シュタイナー教育をやってます、とか、モンテッソーリをやってます、とかって。

そういう教育の理念、建学の精神みたいなものがはっきりしていないとだめ、ってよく、いろいろな人から言われるんですよ。

経営学的にもそうでしょ。

ビジネスのドメインを決めて、セグメンテーションをして、ターゲットを決めて。

まあ、それもわかるし、尤もだとは思っているのですが・・・。

でも私の場合、そこまで理屈の上で、「建学の精神」が必要だとは思っていたのですが、なかなか書けなかったのです。

とりあえず、のものは書くことはできますが。

私の場合は、自分のこれまでの研究から、生活綴方を教育を主軸に、とか、多文化共生の場に、とか(この2つを並べたら、私が誰だか、わかってしまいますねえ。まあ、いいか)。

でも、そういうふうにはどこかでしたくなかったのです。

でも書かなくちゃいけない。

だからいつも、頭の中にこのことがありました。

そう思いながら、世の中を眺めていたら、内田樹さんの文章の中から、次のような部分を発見しました。

もし理想的な教育を行おうとしたら、子どもをその社会における支配的なイデオロギー(それはしばしば教師や親をも共軛している)から隔離するか、あらゆるさまざまなイデオロギーや宗教や因習が共生できる理想的な社会を作るか、二つに一つしか方法はない。
もちろん学校の方が社会よりも小さいので、こちらをいじる方が話が早い。
それは学校を「ありうべき未来社会の萌芽形態」として先取りすることである。
つまり、「さまざまなイデオロギーがにこやかに共生する場所」とすることである。
教師たちの教育理念が異なり、教育方法が異なり、教育の達成目標が異なることが許容されている学校があれば、それこそが想像しうる最良の学校であろう。
理想的な教育というものがあるとすれば、それは「理想的な教育はありえない」という涼しい断念の上にしか築かれない。

多様な、個性的な学校が共存していればそれでいいかな、と思っていたのですが、学校そのものを多元的な空間にする、ということを、改めて考えました。

そういえば、私の先生が言っていました。

先生の大学・大学院時代ですが、例えば2限でO先生のばりばりの文部省批判の授業を聞いた後、3限ではS先生の文部省を強く支持する授業を聞く・・・

そうなんですよね。

だからこの時代のこの大学は、すごかったんだと思います。教育学が最も教育学らしい時代であったのではないでしょうか。

同じ大学で全く違うイデオロギーの講義を聞かされる学生たち。きっと、多少の混乱が生じるでしょう。

でもそれが、学生が学ぶ上で大切なことだと思うのです。

「理想的な教育はありえない」それを「建学の精神」の中に入れていきたいものです。

さてこの路線に強く私が共感しているのは。

そういえば私、昔から「教育方法を愛さないで」と言ってきたなあと思っています。

例えば自分が仮説実践授業が大好きで、そのことを極めていたとしても。

目の前の子どもに必要な授業が、別の授業方法だったら、すっぱり仮説実験授業を捨てるということ。それが私は大切だと思っているんですよ。

だから、教師の専門性とは、目の前の子どもに、何が必要なのかを適切に見抜くこと。

私はそれが教師の専門性だと思うのです。

だから、自分の教育方法を愛さないで。

これと「理想の教育はありえない」ということは、同じことをイメージしていると思うんですよ。

いかがでしょうか。皆さんのご意見をお聞きしたいところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系大学院の入試対策②

教育系大学院の入試対策、第二弾です。

今日は、いよいよ、専門論文の試験についてです。

アジールでは、この対策は結構「熟練」してやっていますので、ご心配な方、いつでもご相談にいらしてくださいね。結構わかってますよ。状況が。こういうマニアックな世界なのに(笑)。

2)専門論文

もちろん大学院入試で鍵になってくるのは、専門論文です。先にも述べましたように、語学試験も単なる語学の試験ではなく、出題される文章は専門論文が多いわけですから、実は専門知識の水準を問うものになっています。そもそも日本語で書かれた専門的な内容が理解できていなければ、当然、英文で読んでも理解できるはずはありませんよね? ですので、英語の勉強だけでなく、専門の勉強をしっかりと進めていないと、英語の得点が伸びるということにはなりません。

では、専門論文の対策はどのようにすすめていったらいいでしょうか。

専門論文の出題の内容は、大きくは、3つに分けられます。

①幅広く教育学の素養を問うもの

②その専門領域の素養を問うもの

③教官の専門分野を中心とした出題を行うもの

です。志望校がどのような内容の出題が多いのか、過去問を収集して、傾向の対策をしておいた方がよいと思います。ただし、出題傾向は変わることがありますから、ご注意を。今年の大学院入試でも、例年、時事問題のテーマ型だった出題が、課題文型の出題に変更されていました。このような場合も少なくありません。

学習方法ですが、①、②については、まずは、教科書的な本を使って、学習を始めてみてください。全般的な状況を理解したら、出題頻度が高い領域を中心とした学習をしていきましょう。③の場合は、教官が最近書かれた本、論文を集めて、読んでいく必要があります。ある程度論文を収集すれば、出題されそうなテーマが見えてくるものですよ。

専門論文のための学習は、皆さんが進学された後の学習にまさに直結するものです。適切に学習をしていけば、本当に楽しいものですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

教育系大学院の入試対策①

久々の教育系大学院についての記事です~。
では、教育系大学院入試の概要についてご紹介していきますね。

2 大学院入試の概要と対策

1)語学

研究者養成や従来型の専修免許の取得できる大学院入試でまず求められるのが語学力です。近年は、外国語1科目で受験できるところがほとんどです。

この語学の試験ですが、これは実質、足切りに使われている大学が多いようです。どんなに専門論文がきちんと書けていても、語学が一定の水準に達していなければ、合格は望めません。ですので、しっかりとした語学力をつけておく必要があります。

大学院入試の語学試験の多くは、長文和訳です。これは実は、英語力だけで高得点を得られるわけではありません。出題される長文の多くは英文の専門論文ですから、英語力はもちろん、専門に関する知識・理解力が問われるわけです。ですので、専門の力量をあげていくことが大切です。

ところで、こうして学習した英語の日本語訳ですが、自分の訳が正しいのかどうかは、なかなか自分ではわからないものです。ですので、専門の先生に訳を検討してもらうことが大切になってきます。

語学の勉強は本当に大切です。
大学院を受験される方は、早めに、本気で取り組みましょう!

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系大学院の種類と目的③

ということで、教育系大学院の種類と目的、第三弾です!

3)教員免許を取得したい方
最近多いご相談が、大学院で教員免許を取得したい、という方々です。大学は卒業しているのだけれど、教員免許を取得してこなかった、けれど、今からでも先生になれるのならなりたい、というご希望をお持ちの方々です。
そのお気持ち、わかるんですよね。
このようなご相談の多くは、20代後半から30代の方々です。この世代の方々が大学を卒業した頃の教員採用試験の倍率は、特に首都圏は、非常に高いものでした。何年も臨時採用の教師をされて、当時の採用年齢制限ぎりぎりの年齢で合格できるか……そんな時代だったのです。ですので、先生になるという夢をあきらめてしまった方も少なくないと思うのです。
でも今なら。
首都圏の特に小学校の採用試験の倍率は、大幅に下がっています。今なら、その夢を実現することも、かなわないことではないのです。
ではまず、どうやって教員免許を取得するのか。
教員免許を取得する方法は様々ですが、すでに大学を卒業した方にお勧めしたいのが、教員免許プログラムを設置している大学院に進学することです。前回も書きましたが、通常の大学院では、既に教員免許を取得していることが条件になってきます。けれど、教員免許プログラムを設置している大学院では、長期履修制度を採り、まったく教育学を学んだことのない方でも教員免許を取得することができるのです。
もちろん、大学に編入して教員免許を取得するという方法もあります。けれど、多くの方と話していて、今から20歳の学生さんと一緒に学ぶのにはちょっと抵抗がある、という方も少なくありません。もともと社会人の方を対象としている教員免許プログラムが設置されている大学院であれば、その心配もなく学べるのではないでしょうか。
このタイプの大学院の入試では、専門論文だけで受験できるところが主流となっています。あ、もちろん、面接や研究計画書はありますがね。それから、教員免許プログラム独自の小論文が課されてきます。

こういう大学院に進んで教員免許を取得するという方法があります。
もちろんアジールでは、研究計画書、口頭試問、専門論文、小論文の対策を行っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系大学院の種類と目的②

ちょっと間があきましたが、「教育系大学院の種類と目的」、第二弾、いってみましょう!

次は、専修免許を取得されたい方の場合、です。



2)専修免許を取得されたい方
 今日の日本では、教員免許状取得のための基礎資格は大学院にはなっていません。短大で2種免許、4大で1種免許、大学院で専修免許、とおおまかにはこのようになっています(卒業の有無は微妙なところがありますので、気になる方は「学房アジール」までお問い合わせくださいね)。

 そういうわけですので、もちろん、教員免許ですから、2種免許であっても採用試験を受験し、合格することは可能です。公立学校の教員採用試験においては、免許状の種類は問われません。そういった意味で「差別」はありません(ただし、私学の場合は、この限りではありませんが)。
 けれど、世界的には、教員養成は大学院修士レベルで、となっているようです。加えて、現在でも、私立学校では採用の段階で、専修免許状を必須としているケースもあるようです。また、将来、管理職になりたいのであれば専修免許状が必要になってきます。このような状態から判断すると、専修免許を持つということは、それなりに合理的な判断かなとも思います。

 専修免許状を取得するためには、大学院の修士課程に進学するということになります。専攻科でもOKなのですが、専攻科に行くよりも、大学院を希望される方の方が圧倒的に多いですね。やはり、専修免許だけじゃなくて、大学院に行くことの魅力もありますから、当然の選択でしょうねえ。

 この大学院ですが、教育系の場合、従来型の大学院と、2008年4月開設予定の教職大学院(専門職大学院ですね)とがあります。従来型の大学院は、前回にご紹介した研究者養成の大学院と重なるところがありますので、今回は、教職大学院を中心にご紹介することにしますね。

 まず、教職大学院の目的ですが、①学部段階での資質能力を修得した者の中から、さらにより実践的な指導力・展開力を備え、新しい学校づくりの有力な一員となり得る新人教員の養成、②現職教員を対象に、地域や学校における指導的役割を果たし得る教員等として不可欠な確かな指導理論と優れた実践力・応用力を備えたスクールリーダーの養成、とされています。大学を卒業したばかりの学生さん(ストレートマスター)だけでなく、現職の方も広く対象とした大学院になっています。現職の教員の方々向けに、長期履修精度をとっている大学院や、仕事を続けながら通学できる大学院もあります。

 入試では、語学、専門、研究計画書、場合によっては卒業論文の提出や要旨が求められますが、語学試験がない場合や専門論文が小論文になっていることまります。また、現職の方には別の問題が課されている場合も少なくありません。

まあ、専修免許を取得されたい方のための大学院は、こんな感じでしょうか。
ただ、一点、ご注意を。
この種の大学院の多くは、すでに教員免許を取得していることが専修免許の取得の条件になっています。もちろん、「抜け道」的なことはありますがね。でも、そういうものに頼るのは危険です。オーソドックスには、すでに教員免許を取得されているということが大切です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系大学院の種類と目的①

ということで、まずは、教育系大学院の種類とその目的についてです。

1)教育学の研究者になりたい方へ

 ずうっと前からある教育系大学院の進学目的としては、まずなんといってもあげられるのは、「教育学の勉強をしたい」「教育学の研究者になりたい」というものでしょう。かくいう私も、将来の職業選択なんてこれっぽっちも考えずに(汗)、ただ、もう少し教育学の勉強がしたいというそれだけの理由で、大学院進学を決めました。
 余談ですがねえ。私の進学先を決めるときの私の学部の指導教官の指導は、はげしいものでした(笑)。東大と一橋と東京都立大、これ以外の大学院に行ってはいけない。まあそれで、私はこの中の一つに進学しました。さすがにそれは、ここでは恥ずかしいから書きませんけど(汗)。ただ、この三つは、専門領域で選ぶべきものとされ、序列がありませんでした。私の先生の中では。教育実践に関心があるのなら、東京都立大が一番、東大はだめだね、という感じで。
まあそれで、学部の指導教官も納得する大学院に進学したわけです。
おっと、めちゃくちゃ余談に走ってしまいました。ごめんなさい。
でも、私自身の考えとしては、この3つにこだわる必要はないと思っています。現に今私が一番行きたい大学院は、神戸女学院大学ですし(笑)。自分の学びたいことがつきたい先生のもとで学べるのなら、それが一番良い環境だと思いますしから。

さて、このタイプの大学院に進学するためには、語学、専門、研究計画、場合によっては卒業論文を含めて、すべての領域がそれなりの水準でこなしておく必要があります。
語学は足きりと言われいますし。ですから、どんなに専門論文が書けても語学試験ができなければ合格は望めません。その逆も然りです。
また、専門論文のできはもちろんですし、研究計画書も重要です。私が指導した学生さんでは、本当にここで苦しんでいる方も多かったですから。
それから、以外と大事なのが卒論です。
T大は、研究計画書と卒論まとめの文字数が同じです。もちろん、文字数から単純に推測することはできないのですが、でもやはり、同じ分量ですからね、それなりの水準のものが求められていると思うんですよ。
私自身も、卒論をしっかり書くことを学部時代に強く指導されました。どこに出しても恥ずかしくない卒論を書きなさい、と。まあ、先生は、「指導しないことが指導だ」とおっしゃるような方で(涙)、自分で考えてつくることを強く指導されたのですがね。まあ、そういう育てられ方をしてきました。
まあ、それはともかく。
研究者になりたいのなら、その研究作業である卒業論文には力を入れるべきです。
研究者というのは、研究をすることが一生続く、そんな仕事です。その入門的な仕事である卒論に魂を入れることができないのであれば、大学院に進学して、研究者になっても、不幸ですよね。
なので、一生やりたいと思う研究をそのまま進められればいいと思うのです。
なので、受験対策は本当に楽しい仕事なんですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育系の大学院について。

アジール生の方が大学院に合格されたので、ああそうかと思って、教育系大学院について書いてみたいと思います。日常的に大学院入試の指導をしている私にとっては、こういう教育系大学院の動向って、普通のことなんですが、大学院に行く人って、少数派なんですよね。当然なことですが。だから、教育系大学院がどういう世界なのか、実はそれほどは知られていないんですよね。なので、いろいろ書いてみたいと思います。こういうことを知りたいというご質問、ぜひぜひコメントしてくださいな。それに答えるように書けたらなあと思いますので。

最近、教育系の大学院に進学される方が増えているように思います。
日々、教育学を学びたい方、教育系の大学院に進学されたい方と接していると、皆さん、様々な目的をもって、大学院に進学されようとなさっていることを実感します。
そうなんです。「様々な」目的、なんです。
学生さんが大学院に求めていることは、本当にいろいろです。そして、それに呼応するように、大学院の方も多様化しています。
ですので、これからなんかいかに分けて、皆さんの目的意識にふさわしい大学院、大学院入試で求められる能力・学力について書いていきたいと思います。
と、今晩は他の仕事が山積みなので、「前振り」だけです。
ごめんなさい!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

合格、おめでとう!

アジールでサポートしている学生さんが、大学院入試に合格されました。
本日合格発表があった、千葉大学大学院教育学研究科です。
本当に私、ほっとしています。

その方は、アジールの教育系学生支援部門の方です。
アジールで、卒論のサポートと大学院入試のサポートを受けてらっしゃいます。
研究計画書や志望理由書の作成、当日課される論文試験対策、口頭試問対策を行ってきました。
本当に合格してくださって、うれしいです。
合格、おめでとう!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

時間を軸にして順番をつける。

 わあ。例によってブログの記事を書いていたら、ミスをして、全部を消してしまいました。はあ。サーバー上で書いているからいけないんですよねえ、 きっと。わかってはいるのですが、ファイル管理が面倒なので、つい、サーバー上で書いてしまうのです。でも、ここ数日、アジールのブログをおいているニフ ティのメンテナンスがあったもので、サーバーにあげてある記事が読めず、困った事態も起こっておりました。そういうことを考えるとやはり、オフラインでも 仕事ができるようにしておかなければいけないんですよね。反省。

 ところで、昨日、力を集中させるということについて書き、現実の世界で学生さんと話していると、「それができないから困っているんじゃない!」とのご指摘が。はい、その通りであります。私だってそうですから。
 なので、今日、学生さんからそう言われたときに、お話ししたことを、少し書いてみたいと思います。

 私自身が、そういう場面で考えていることは、できるだけ遠い未来の地点に自分をおいて、その地点から必要なことを、今の時点で、選択する、ということです。

 例えば、複数の大学を受験するときに、志望校をどうやって選ぼうか、ということを、皆さんきっと、悩まれると思います。大学受験の偏差値というス ケールがあって、その上位であればその方がいい、ということであれば、それはそれでOKなのですが、そうとも言えない局面もありますからねえ。特に、大学 院にもなってくると。
 現在の自分を眺める時間の地点を、「大学院に合格すること」といったきわめて近い未来においてしまうと、複数の大学院に合格したときに、どこに行こう か、ものすごく悩むことになります。だって、自分の短期的な未来は実現してしまったわけですから。想定されていない「未来」の選択をしなければならないの です。
 では、「先生になること」という、2~3年後に自分を立たせると。まずは、教員免許が確実に取得できる大学院を選択することになります。その上で、実際にどのくらいの人たちが教師になっているのか、ということも考慮に入ってきますよね。
 さらに、「こういう先生になりたい」「こういう教育実践がしたい」という教師になってからの自分から、今の選択を考えると。大学院でどのような学びが必要なのか、見えてくる部分がありませんか?
 さらに……と考えていくと、自分の人生でどの程度のことができるか、見えてきませんか。
 若い学生さんは、時として、自分にはたくさんの時間があって、たくさんのことができる、という全能感に浸りがちです。確かにそういう側面も全く無いわけ ではないのですが、それでもやはり、人生は短いのです。短い人生ですから、そんなに回り道をしている「暇」は無いと思うのですよ。

 とまあ、偉そうなことを書いていますが、これも昨日と同様で、強い自戒を込めて、なのです。
 私自身も、若いときには、ある意味、刹那的に生きてきました。今でもまあ、そういう面が完全に無くなったわけでもないかもしれませんが。まあ、「今」、自分がやりたいことを優先するような生き方をしてきたわけです。
 けれど最近、「20年後」を頭におくようになりました。20年後までに実現しておきたいことがあります。そしてそのためには、10年後にはここまで、5年後にはここまで、3年後には、1年後には、半年後には、1か月後には……と思考する癖がついてきたと思います。
 不思議なもので、20年後というイメージが具体的であると、何か迷ったときに、「これは必要ない」とあまり迷わずに決断できるようになりました。少なくとも私の内面では。

 時間を未来に延長するということを考えた場合、その究極の地点は、自分のお葬式の晩、ということになると思います。まだまだ私は修業が足りませんから、20年後、まあ、その延長の30年後くらいまでしか、時間を延長することができません。
 それでも、1年後、5年後を基軸にしているよりは、いい生活が送れているかな、と思うのです。
 とまあ、勝手に自分では思っていますが、皆さんは、私のことをどう見ているのでしょうかねえ? ちょっと怖くて、聞けません(汗)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

力を集中させるということ。

ここ数日、寒い日が続いていますね。皆さん、体調を崩されてはいませんか。実は私、すっかり喉をやられてしまって、ひいひいいながらここ数日を過 ごしています。エアコンがだめなんですよね。今朝起きたら、めちゃ喉が痛くて、一日中、エアコンの部屋にいたら、目に見えて悪化が……。皆さんも、どうぞ お大事になさってくださいね。

 さてこの時期、いろいろな方から、いろいろな相談をもちかけられます。中高生は期末テストのシーズンですし、大学生諸君からは、レポートの書き方や卒業論文について相談を受ける機会が多いです。今回は、後者の相談を受ける中で感じたことを書いておきましょう。

 まず、結論から。
 レポートや卒業論文で成功するポイントは、どれだけ、論点をしぼれるか、ということだと思います。
 学期のまとめの数枚のレポートはもちろんですが、卒業論文だって、その分量は、たかがしれたものです。分量的な問題だけでなく、それにかけられる時間だって、それほど多くはないと思います。
 そういう条件の中で、広範なテーマを扱うものだったり、複数の論点が含まれるものでしたら、おそらくそれは、かなりの確率で失敗するものになると思います。力を入れる必要があることが複数になるわけですから、当然、力が分散してしまいますから。
 だから、一点に論点を絞って、その点を深めていくことが、論文の成功のポイントだと思います。
 ただ、その論点が、その研究対象の本質的なものを象徴するようなものであったら、個別具体的な論点から、その研究対象の全体に触れるようなものになると、非常に良いのです。
 そういう思考方法を、大学にいるうちに、身につけておいてほしいと思います。

 どこかに集中するということは、論文のお作法に限定されるものでもないと思います。人生を生きる上でも、有効なことなのだと思いますよ。

 「あなた」がもし、とても才能に恵まれた人で、普通の人の3倍の能力があったとします。でも、関心領域が広く、5つの領域に手を出したとした ら……。一つの領域で発揮出来る力は、普通の人の60%でしかありません。普通の人よりも能力が劣っていて、70%ぐらいしかない「私」だって、一つのこ とに関心を集中したら、才能に恵まれた「あなた」よりも力を発揮できると思います。
 単純なことかもしれませんが、そういうものではありませんか?
 優秀な方であればあるほど、多くのことに手を出しすぎて、思うように結果が出せていないように感じます。時には切り捨てる勇気も必要なのではないでしょうかねえ。
 でもまあ現実には、私自身も多くのことをしすぎていて、もっともっと、力を集中させるべきだと、日々深く反省し、思い悩んでいます。ですので、改めて自戒を込めて。
 どこか一点に力を集中させることが、大切なんですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子どもたちの「全能感」について。

 

教育書を読んでいたり、現代の子どもたちと関わる中で、気になることがあります。

 それは、「全能感」です。もちろん、アジールの子どもたちが、というわけではありません。

 私などは、自己評価の低い人間ですから、基本的にいつも、「おどおど」しています。自分が評価されることは無いんじゃない、という前提で動いていますし(汗

 でも、どこか最近の子どもたちは、「今の自分でOK」というような感覚が強くあるように思います。

 私のような自己評価の低い人間からすると、本当にそれはうらやましいのではありますが、でもどこかでちょっとひっかかるのです。

 そういえば、苅谷剛彦さんの『階層化日本と教育危機――不平等再生産から意欲格差社会』(有信堂高文社, 2001年)の中で、学力の低い子の自己肯定感の高さが話題になっていたと思います。私自身の実感からしても、それは当てはまるように思うのです。

 学力が低く、到底、彼らが語る自己イメージとはかけ離れているように私には思えるようなのだけれど、当の本人は、自分には何でもできる、それでOK、というような感覚。

 それはどこか、幼児の全能感に近いものがあると思うのです。

 もちろん、子どもたちに、私のような低い自己評価を持ってほしくはありません。

 けれどどこかで、次の成長につながるような自己認識をしてほしいと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リメディアル教育。

 最近、リメディアル教育について考える機会が多いです。いわゆる大学での補習教育です。

 リメディアル教育が最初に叫ばれたのは、確か、理系の学部において、だったと記憶しています。理科が1科目で受験できるから、生物や化学を学ばずに大学に入学する医学部生が現れ、大学で補習を行うようになった、というあたりが最初だったと思います。
 大学における補習教育は、着実にそのシェア(?)を拡大しました。「日本リメディアル教育学会」というのも誕生し、研究・実践が進められているようです。

 このリメディアル教育の内容は、実に様々です。が、大別すると、理数系の科目、英語、それに、国語(日本語)といったものに分けられるでしょう。私は、作文教育や文学、言語学に関心を寄せているものですから、当然、国語(日本語)の教育内容に関心を持っています。
  ところでこのリメディアル教育は誰が行っていると思いますか? 大学が行っているものですから、当然大学の先生でしょ、と思われるかもしれませんが、必ず しも大学の教師が実施しているわけではありません。もちろん、大学の先生が、一生懸命カリキュラムを作成されてはいるというケースもありますが。
 その一方で、予備校をはじめとした民間の教育機関が教材作成を請け負っているケースもあります。
 具体的にはどういう教材で、どういう学力をつけることを目指しているのだろう? と結構関心をもっておりましたところ、偶然、その教材を目にすることができました。国語に関わる問題です。
  それを見ていると、漢字の書き取りから始まって、小論文の作成までが求められていました。なかなか丁寧に作られているなあとは思いましたが、少なくとも一 般の大学受験のためにする学習とは質的に異なりますから、学生さんたちは苦戦するだろうなあと思いました。途中で添削指導をするなり、学生さんと面談をし て、話を聞いてあげて、そこから書く「種」を発見させるようなお手伝いをする人がいないと、ちょっと厳しいかなあと思います。
 そういう実践が、大学で行われていく必要があるのかもしれません。

 余談ですが。
 もし私がリメディアル教育をコーディネイトすることができたら。
 漢字検定や文章能力検定といった検定試験を効果 的に使いながら、論文の素材としては、PISA調査型の問題を作成しようと思います。PISAの場合は、採点基準もはっきりしていますし、論述する力が相 当つけられると思います。でも、もちろんPISAだけでも不十分。私はちょっとPISAにも不満な点があるんですよ。このことはまたそのうち、書きましょう。

 そういえば。
 これを書いていた思い出したのですが、2003PISA調査の結果が報道されてから、日本の子どもの読解力の低下が話題になりました。時の文部科学大臣は、だから、素読が大事だ、といったことを発言されていたと記憶しています。
 「国語」「読解」という言葉のイメージからだと、この大臣の発言、あたっていると思いません?
 でも実は、まったくこれでは、あたってないと私は思います。
 PISAの読解リテラシーの問題は、素読をいくらやっても解けるような問題ではありません。なので、PISA調査を根拠に、「日本の子どもの読解力の向上を目指す」というのであれば、PISA調査の問題に対応できるような質の学びが必要不可欠だと思います。
 そこがあまりにかけはなれていましたから……
 PISA調査って、「順位」だけが先行していますから。どれだけの方が、問題を実際にみてらっしゃるのでしょうか? 文部科学省のサイトに掲載されていますから、部分的にでも見ておいてほしいと思います。教育を学ぶ人であれば、なおさら、ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

小論文の授業。

今日のアジールでは、大人の授業がありました。海外からの帰国生の方で、大学生、社会人と身分は様々なのですが、日本語が心配なので教えてほしい、という依頼があったお仕事です。モチベーションが非常に高い生徒さんのクラスです。
はじめは、言葉の学習、漢字の書き取りから学習を始めてきたのですが、だいぶ力もついてきたなあと思いましたので、今日は、一歩前に進める学習をしました。いわゆる学習用の教材ではなくて、生の資料を用いて学習をし、小論文を作成するための準備の学習です。
今日の「お題」は、「子どもの食」。食というのは、人間が生きていく上で、絶対に大切なことですし。それにクラスには、栄養学を専攻の学生さん、保育士の方がいらっしゃるので、関心を持ってもらえるかと。

私自身、ほぼ100%外食の食生活ですし、朝ごはんを食べないことの方がはるかに多いので、全く人のことは言えないのです。それは本当によおくわかっているのです。でもだからといって、問題の大切さをわかっていないわけではありませんから、授業で扱うことにしました。

まずは、子どもの食をめぐる現状の確認。朝食を食べないことがある子が全体の約20%、8割は食べていることになります。けれど、その内容を考えると、非常に心もとない、という調査結果が出されています。ドーナツにコカコーラ、カップ焼きそばのお湯を捨てないもの(カップラーメンのようにして食べるんでしょうかね)、まあ、そんな食事も少なくないようです。
子どもたちの食生活をめぐる問題は、朝食だけの問題ではありません。
私が一番気になっているのは、「味盲」です。食品添加物で強い味に慣れすぎてしまっていたり、食事のバリエーションが少ないことから、微妙な味の違いがわからない子どもたちが増えているのではないか、という問題です。
「苦い」「渋い」がどちらも「まずい」でくくられてしまったり、添加物が入った強い味のものでないと「おいしい」と感じられなかったり。
私はこれが一番気になるのです。
私は田舎育ちですし、昔の人ですからね。ほとんど調味料を使わない、素材の味が嫌いではありません。野菜サラダは何もかけなくても食べられるし、煮物に砂糖は使わないし。もう何年も自分でマヨネーズなんて買ってない(あ、最近は自炊をしないんだから、当然か)。

おっと、こんなことを書くつもりはなかったのに。

それでもって、食をめぐって小論文を書くことにしました。
「現代の食生活をめぐる問題について論じなさい」という課題です。
800字ぐらいの入門編の論文としては、以下のようなかたちでいかがでしょうか。

序論:課題設定
 食生活をめぐる問題といっても、非常に様々です。ですのでまず、食生活をめぐる様々な問題の中から、今回自分が論じる問題について、序論で課題を設定します。このとき、できるだけ小さなテーマに設定していくことが良いです。800字では、たいしたことは論じられません。なるべく小さなテーマを一つだけ選びます。その設定を行うのが、序論の役割です。
 例えば、「子どもの食生活について」「食品添加物と子どもの味覚について」等々、だんだん小さなテーマにできるようにしていきましょう。

本論
 いろいろな書き方がありますが、書きやすいものとしては、こんな感じかな。
①実態
 課題についての事実確認をする部分です。何が問題なのか、それが読者に伝わるように書いていきます。
②原因・背景の分析
 ではなぜ、そのような実態が生じているのか。背景の考察を行います。
③解決策の提案
 原因・背景分析に基づいて、自分なりの問題解決の提案を行う部分です。

結論:まとめ
 全体を整理して、論文を着地させます。

まあ、一つは、こんな感じでしょうかね。
クラスの皆さんはどんな小論文をお書きくださるでしょうか。
来週の授業が楽しみです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

志望理由書の添削。

 

学生さんから、志望理由書がどんどん届きます。添削してほしいって。

 私は、こういった志望理由書は何通も読んでいますから、読むとだいたい、どこをどう直したらいいかはわかるので、丁寧に指導してあげたいなあとは思うのですが、それが十分にできず、ストレスがたまっています。
 それは、「時間」が足りないからです。
 学生さんには、提出日まで1ヶ月は指導期間としてみておいてほしいと、私としては口をすっぱくして、何度も言っていたつもりではあるのですが、皆さん、 持ってくるのがぎりぎりなんですよね。本当に困ります。時間をかけて、丁寧につくればつくるほど、良いものに仕上がるのに。皆さん、今後は、少しでも早め にやっていきましょうね。今回の教訓をいかして。
 でもまあ、そうはいっていても、今回だって、まだ、締切まで時間がありますので、最善を尽くすのみです。がんばります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

関心を集中させるということ。

 が~ん。今、結構長文の記事を書いたのですが、全部消えてしまいました(涙。何か別のソフトで書いていればバックアップが残ったのかもしれません が、私の場合、直接、サーバー上で書いているので、バックアップが見当たりません。せっかく書いたのに。でもまあ、仕方がありません。こうして2回目を書 いていると、きっと、先ほどとは全く違った「オチ」の文章になることでしょう。自分でもどう落ちるかわからないという、書くことの楽しみを味わいながら、 また書いてみたいと思います(眠いことは眠いのではありますが(汗)。

 私のような仕事をしていると、学生さんから、卒業論文や修士論文、大学や大学院の志望理由書、研究計画書の指導をよく求められます。できる限りはお引き受けし、一緒に楽しく勉強させていただいてはいるのですが、なかなか大変だよね、と感じるケースも少なくありません。

 私が大変だよね、と感じるケースは、むしろ、学力の高い、比較的「良い子」で通ってきた学生さんのケースです。

 彼らは、学力がありますし、いろいろなことをそれなりにこなすだけの力があります。そういう意味ではとても楽しみな方が多いのですが、その自分の 能力を、一点に集中させることがなかなか難しいのです。学習意欲の高い方も多いですから、なるべくたくさんのことを学びたい、なるべくたくさんのことを包 括できるようなテーマを選定したい、という無意識的な欲望が強いように感じるのです。例えはっきりと、自覚はされていなくても。

 そういう精神の状況の中で選択されてくるテーマというのは、「学校制度と教育」「理想の教師とは」といった、概括的、価値的なものが多いのです。

 う~ん、これではなかなか論文にすることは難しいです。

 そもそも、「学校制度と教育」なんて、教育学の一つの領域ですし、一生かかってもおそらく終わらないテーマです。また、当為の学で課題を設定していっても、論文で検討した結果の「答え」を導き出すのが難しいと思います。

 論文というのは、そういうものではないんですよ。

 なるべく問題を狭く、はっきりと限定した課題を設定して、仮説を提示し、何らかの実証を行い、結論を述べる。ただそれだけのことではないでしょうか。

 だから、「答え」が導きだせるような課題を設定することが大切なのです。

 高校と大学の学びの大きな違いは、大学では、「問う」力が重要になってくる、ということだと思います。どのような問い方をすればいいのか、それに多くのリソースを注ぐ必要があります。そして、問いの質によって、論文の質が大きく左右されてくるのです。

 う~ん、やっぱり、全然違う方向に落ちてしまいましたね。もう少しこのテーマで書きたいとは思うのですが、続きはまた後日に。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

「有責性」について。

もうかなり古い話題なのですが、内田樹さんがブログで書かれている「単位未修問題であちこちからコメントを求められる」を授業で使いました。時事問題という意味では確かに古い話題なのではありますが、それを超えて学生さんに伝えたいと思うメッセージがあったからです。
まずは、全文をご紹介。

高校の単位不足問題についてあちこちのメディアからコメントを求められる。

テレビだけはお断りしたけれど(すみません)、新聞雑誌からの取材にはその場で思いついたことをだらだらしゃべる。

私は高校の現場の人間ではないので、素人の意見を述べるしかない。

私の見るところ、この履修問題が顕在化したプロセスはつぎのようなものである

(1) 学習指導要領と現場での教育内容には乖離がある

(2) この乖離を学校と教育委員会は法規の「弾力的運用」によってつじつまあわせをしていた

(3) 「弾力」の度が過ぎたので、あちこちでほころびが出た

この現状認識に特に異存のある方はいないであろう。

(1) は現実である。

実際に文科省の示す学習指導要領通りに授業をやるだけの時間も人的リソースも確保できないと悲鳴を上げている学校はいくらもある。

主な理由は(教員たちによれば)教員たちにあまりに大量のペーパーワークが課せられているために、授業に割く時間とエネルギーが減退しているためである。

これについては教育委員会や文科省にも言い分があるだろうが、私自身現場の教員として断言できることは教員たちがいま会議とペーパーワークに割くことを強いられている時間を子どもたちの教育活動に集中できるようになれば、日本の教育問題はとりあえず三割方解決するであろうということである。

私自身が大学で自己点検自己評価やFD活動や教員評価や教育効果測定といった文科省が推進してきた教育工学的実践のために割いた時間は数百時間にのぼると思われるが、それがどのくらい学生たちの知的向上に資するところがあったのかどうか、私にはわからない。

多少は効果があったのかも知れないが、私がパソコンに向かって官僚的作文を起草したり、エンドレスの会議で疲弊したその数百時間を学生といっしょに過ごすために用いた方が、間違いなく学生たちの満足度は高かったであろう。

なんだかずいぶん無駄なことしたような気がする。

話を戻す。

問題は(2)と(3)の間にある。

法規と現実のあいだに齟齬があるときには、「事情のわかった大人」が弾力的に法規を解釈することは決して悪いことではない。

今回の問題は(3)の「度が過ぎた」という点である。

「弾力的運用」ではなく、いくつかの学校では必修科目をネグレクトすることが「硬直化した構造」になってしまっていたということが問題なのである。

「度が過ぎた」せいでシステムがフレキシブルで生産的になるということはない。

これは経験的にはっきり申し上げることができる。

「度が過ぎる」とシステムは必ず硬直化する。

原理主義の度が過ぎても、自由放任の度が過ぎても、「政治的正しさ」の度が過ぎても、シニスムの度が過ぎても、放漫の度が過ぎても、厳格さの度が過ぎても、必ずシステムは硬直化し、システムの壊死が始まる。

そういうものである。

最初に文科省からのお達しを聴いて、「これをそのままに現場でやることは現実的にはむりだわな」と判断して、「というわけですので、みなさんここはひとつ私の顔に免じて、弾力的にですな、ご理解いただくという」というようなことをもごもご言った人がいた段階ではシステムはそれなりに「健全に」機能していたのである。

私はそういうふうに考える。

だから、「私の着任以前の何年も前からルール違反が常習化しており、私も『そういうものだ』と思っておりました」というようなエクスキュースを口走る管理職が出てきたことがシステムの壊死が始まっていた証拠である。

彼らはバブル末期の銀行家たちと同じように、「在任中に事件化しなければ、どのような法令違反も見ないふりをする」というかたちでルール違反を先送りしてきた。

だが、「超法規的措置」とか「弾力的運用」ということがぎりぎり成り立つのは、それが事件化した場合には、「言い出したのは私ですから、私が責任を私が取ります」と固有名において引き受ける人間がいる限りにおいてである。

法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその「生身」を供物として差し出す場合だけである。

川島武宜先生は「生身」を差し出すことによる「ソリューション」の代表例として河竹黙阿弥の『三人吉三廓初買』の「庚申塚の場」を挙げている。

お嬢吉三という悪党が夜鷹を殺して百両を奪う。

それを目撃して、「その百両をよこせ」と強請るのがお坊吉三。

二人が刀を抜いて金を争うところに、もう一枚上手の悪者である和尚吉三が登場する。

そして二人に向かって「己に預けて引いて下せえ」と持ちかけ、二人がとりあえず収めると、こう続ける。

「ここは一番己が裁きを付けようから、厭であろうがうんと云って話に乗ってくんなせえ。互いに争う百両は二つに割って五十両、お嬢も半分お坊も半分、留めに入った己にくんねえ。其の埋草に和尚が両腕、五十両じゃ高いものだが、抜いた刀を其儘へ収めぬ己が挨拶。両腕切って百両の、高を合わせてくんなせえ。」

言われた二人は刀を和尚吉三の腕に添えて、その腕を引き、自分たちの腕も引いて、それぞれ腕から流した血を啜り合って、「かための血盃」で兄弟分となる・・・というたいへん心温まるお話である。

これは紛争の超法規的=日本的解決の典型的な事例であると申し上げてよろしいであろう。

しかし、この調停が成功するのは、和尚吉三が「両腕」を供物として差し出すからである。

非妥協的な利害の対立の場面に「弾力」を導入することができるのは生身の身体だけである。

対立の場にねじこまれた生身の身体によって、対立の当事者たちはそれぞれ半歩退き、そこに一時的な「ノーマンズラ・ンド」(非武装中立地帯)のようなものができる。

これがソリューションとして有効なのは、それは当事者も仲裁者も、誰もがこの解決から利益を得ないからである。

これはどう考えても「正しいソリューション」ではなく、「誰にとっても同じ程度に正しくないソリューション」である。

だが、実際に組織で長く働いてこられた方は経験的によくおわかりだろうけれど、その解決から利益を得る人が誰もいないというソリューションこそがしばしば合意形成のための捷径なのである。

最近よく「ウィン=ウィン」という戦略が外交の場で口にされるが、こういう言葉はすぐに一人歩きするから注意が必要である。

実は、いちばん合意形成にもってゆきやすいのは「ルーズ=ルーズ」ソリューションなのである。

またまた話があらぬ彼方へ行ってしまったのでもとへ戻す。

ことのはじめに学習指導要領の「弾力的運用」に踏み切った現場の校長や「見て見ぬ振り」をした教育委員会の諸君は、多少とでも「和尚吉三」的エートスを残していたように私には思われる。

文科省と生徒の間に立って、「これで高を合わせておくんなせえ」と「手打ち」をもちかけたのである。

ことが発覚して、糾弾された場合には潔く「両腕」ならぬ辞表くらい差し出す覚悟はあったであろう(希望的観測)。

法規の弾力的運用が許されるのは、そのような仕方で固有名をもった個人がおのれの「生身」を担保に置く場合だけである。

誰も責任を取る人間がいない「法規の弾力的運用」は単なる違法行為である。

責任を取る気のある人間は「ばれた場合に300時間の補習が必要になる」ような「度の過ぎたルール違反」はしない。

とてもじゃないけど、責任の取りようがないからだ。

こんなルール違反ができるのは「はなから責任を取る気のない人間」だけである。

責任をとるつもりでいる人間が自前の「生身」を差し出している限り、「常識的に考えてありえない」ような「度の過ぎた」ルール違反はなされない。

「度が過ぎる」のはいつだって「前任者からの申し送り」を前例として受け容れ、その違法性について検証する気のないテクノクラートたちである。

彼らの罪は重い。

政府の「救済措置」は「この先、現場に勝手はさせない」という約束とのトレードオフとして提供された。

行政にしたらこれは「たいへんにお安い買い物」だろう。

なにしろ、これで全国の教育委員会と校長たちの首根っこを押さえたのである。

この先政治がどれだけ教育現場に口を出しても、もう現場は「私たちを放っておいてくれ」とは言えない。

「ん?放っておいた結果、キミたちは何をやらかしたのかね?」と押し込まれたら二の句が継げないからだ。

日本中の多くの都道府県の教育委員会と教師たちは、「政治判断によって生徒たちを救済してもらった」という大きな借りが政治家にできた。

だから、「これで教育基本法も教員免許制度も、現場の抵抗なしに乗り切れるぞ、わはは」と与党の文教族たちは満面の笑みで祝杯を挙げていることであろう。

間違いなく、今度の事件でいちばん利益を得たのは彼らである。

これから先、政治家たちは教育について言いたい放題のことを言い出すだろう。

無数の思いつき的な「教育再生案」が現場をとめどない混乱のうちに叩き込むことになるだろう。

私が自分なりに引き取って、お話をしたのは以下の部分です。

これについては教育委員会や文科省にも言い分があるだろうが、私自身現場の教員として断言できることは教員たちがいま会議とペーパーワークに割くことを強 いられている時間を子どもたちの教育活動に集中できるようになれば、日本の教育問題はとりあえず三割方解決するであろうということである。

私自身が大学で自己点検自己評価やFD活動や教員評価や教育効果測定といった文科省が推進してきた教育工学的実践のために割いた時間は数百時間にのぼると思われるが、それがどのくらい学生たちの知的向上に資するところがあったのかどうか、私にはわからない。
多少は効果があったのかも知れないが、私がパソコンに向かって官僚的作文を起草したり、エンドレスの会議で疲弊したその数百時間を学生といっしょに過ごすために用いた方が、間違いなく学生たちの満足度は高かったであろう。
なんだかずいぶん無駄なことしたような気がする。

これは、今回の話題とは直接は関係がないと思うのですが、本当に日々私、感じているものなのです。

小学校の現場でも、学校評価のためにアンケートをつくって回収してデータの整理をしている時間があるのであれば、その時間、子どもに掛け算を教えてあげたい、と思ってしまうのです。違うかなあ?

それから、この部分。

だが、「超法規的措置」とか「弾力的運用」ということがぎりぎり成り立つのは、それが事件化した場合には、「言い出したのは私ですから、私が責任を私が取ります」と固有名において引き受ける人間がいる限りにおいてである。
法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその「生身」を供物として差し出す場合だけである。

この部分は、「有責性」の話ですよね。

「固有名を名乗る人間がその「生身」を供物として差し出す場合だけである」

この部分です。

今日、この話をしたときには気づかなかったのですが、今、こうして記事を書いていて、わかりました。私が「コンサルタント」が嫌いな理由を。

彼らは、自らの「生身」を差し出すことをしないのではないでしょうか。だから私は、どこかで直感的に、彼らを嫌っているのではないでしょうか。

もちろん、コンサルタント諸氏の存在意義を否定するつもりはありません。ただ、今の私にとっては、「生身」を差し出す、自らの名において責任を引き受ける人が、大切なのだろうと思います。きっと。

法規の弾力的運用が許されるのは、そのような仕方で固有名をもった個人がおのれの「生身」を担保に置く場合だけである。

誰も責任を取る人間がいない「法規の弾力的運用」は単なる違法行為である。
責任を取る気のある人間は「ばれた場合に300時間の補習が必要になる」ような「度の過ぎたルール違反」はしない。
とてもじゃないけど、責任の取りようがないからだ。
こんなルール違反ができるのは「はなから責任を取る気のない人間」だけである。
責任をとるつもりでいる人間が自前の「生身」を差し出している限り、「常識的に考えてありえない」ような「度の過ぎた」ルール違反はなされない。

自ら責任を引き受けるという意味においてルール違反を犯し、そのことが結果として、ルール違反を減じるというねじれた「正義」がここにはあるのではないでしょうか。

この先政治がどれだけ教育現場に口を出しても、もう現場は「私たちを放っておいてくれ」とは言えない。

「ん?放っておいた結果、キミたちは何をやらかしたのかね?」と押し込まれたら二の句が継げないからだ。
日本中の多くの都道府県の教育委員会と教師たちは、「政治判断によって生徒たちを救済してもらった」という大きな借りが政治家にできた。
だから、「これで教育基本法も教員免許制度も、現場の抵抗なしに乗り切れるぞ、わはは」と与党の文教族たちは満面の笑みで祝杯を挙げていることであろう。
間違いなく、今度の事件でいちばん利益を得たのは彼らである。
これから先、政治家たちは教育について言いたい放題のことを言い出すだろう。
無数の思いつき的な「教育再生案」が現場をとめどない混乱のうちに叩き込むことになるだろう。

                           
                                                                                                                        
                                                    

教育の現場に限っていうと、現場に任せていただけることが一番良いように思うのです。

内田さんのこのブログは、昨年11月のものです。1年経って、まさに教育の世界は、そのようになっていますね。残念ながら。

| | コメント (0) | トラックバック (6)

論文の節度。

 面倒だなあと思いつつ、往復1時間の「自宅」にPCのソフトを取りに行った後は、「学房アジール」で、学生さんの答案の採点。B4判1枚程度の小論文の採点なのだが、これが結構な量なので、結構大変。

 採点をしていて、何度も同じことを書いているような気分になる。あれれ? こういうことって、私、授業でも話しているつもりなのだけれど。

 私の言い方が良くないのか、学生さんが自分のこととして聞けていないのか。

 おそらく、その両方でしょうね。

 よくある答案のまずいパターンは、こんなに短い論文なのに、複数の論点が混在しているもの。たった1枚で、そんなにたくさんの論点を論じることはできないでしょ。だから当然、散漫で、尻切れトンボで、論理が飛躍し、根拠が不十分なものになってしまっています。

 序論で論点を一つに限定し、そのことだけを論じるんです。ただそれだけのことなのですが。

 そういえば、このことについても、内田樹さんのサイトで記述がありました。古いブログからですが、紹介しておきましょう。

あのね、キミは学術論文のフォーマットというものがわかっていない。
「モノグラフ」というのは「論点は一つ」と決まっている。
一つの論点を選び、それについての仮説を提示し、それを論証してみせる。
ただ、それだけのことである。
いったい何が論点なのか、それが明示されなければ論文ははじまらない。
しかるにキミの論文は何を論証するのだがよくわからない。
論点は手塚治虫のヒューマニズム論なのか、手塚のジェンダー・ブラインドネスなのか、『ブラックジャック』作品論なのか、「登場人物=記号」論批判なのか…
私にもわからない。
わずか20枚ほどの論文では、それらすべてを論じることはできない。
なぜ、論点を一つに絞るという「節度」が保てないのか。
ある種の知的な学生さんたちの書き物の特徴は、この「節度のなさ」である。
論点ひとつに絞るというのは知的な「節度」を持つということである。
どれだけ多くの参考資料を渉猟したとしても、論点から外れることについては触れない。
「あれも読みました、これも調べました…」と手柄顔で列挙していると、結局何が論点なのかがわからなくなってしまう。
あまり知られていないことだから、この機会に申し上げておくが、「よくできる」学生さんの書く論文が陥る最大の欠点は「証明過剰」ということである。
その仮説が「当てはまる事例には当てはまる」というところで踏みとどまれずに、「すべての事例に当てはまる」という方向へ前のめりになってしまうのである。
残念ながら、「すべての事例に当てはまる」ような仮説というのは、ほとんどの場合「雨が降る日は天気が悪い」というような無意味な同語反復にすぎない。
節度を失った仮説は必ず凡庸化する。
そして誰でも知っており、誰でも同意する仮説に学術的価値を認める人はいないのである。
だから、凡庸でありたくないと望むなら、「限定的事例にのみ妥当する奇妙な仮説」にあえて踏みとどまらなければならない。
この間、春日武彦先生に教えて頂いたのだが、ある種の統合失調症患者は「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式を発見する」ことへの固執を示す。
宇宙の真理のすべてが「ワンフレーズ」に収まることを彼らは切望するのである。
言い換えると、「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式」への欲望を自制できることが「健常な知性」の条件だということになる。
モノグラフが成立するか否かは、ひとえにこの「自制」にかかっている。

ということなのですよ。

 「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式」を見つけることが知性だと、子どもの頃の私は信じていました。これは極めて「子どもの思考」なのですよ。

 論点を限定的に設定し、そことの関わりだけで本論を展開するんです。それ以外は、例えたくさんの本を読んでいても、書いてはいけません。

 学生諸君の健闘を祈ります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大田堯の『教育研究の課題と方法』と論文のスタイル。

 今日の話題は、大田堯の『教育研究の課題と方法』です。前にご紹介した堀尾輝久の『教育入門』といい、なんか、今的ではない、教育学かもしれません(汗)。でもまあ、こういう世界を全く知らない学生さんには、知らせておくことも必要なんじゃないかなあ、と思いまして。

 大田先生のご著書は、いわゆる学術的な論文のスタイルとは違うものが多いと思います。本当に、一般の人に語りかけている、というか。大田先生の東大時代の講義を聴かれていたある方は、「漫談」だと言っておられました。ものすごく引き込まれる、と。でもその方は、その後に、ネガティブなニュアンスのことを付け加えてらっしゃいましたけれど。

 今回扱った『教育研究の課題と方法』も、註記はあるものの、キー概念はこのような定義で用い、論文の課題はこうで、仮説はこうで、こういう実証を行って、こういう結論が出ました、といった、よく学会誌で読むようなパターンの論文ではありません。

 学生さんの中には、理系出身の方がいて、いわゆる仮説実証型の論文に慣れている方で、あまりにもなじみがないスタイルだから、「新鮮」だと言われていました。そうとしかコメントできなかったのかもしれませんね。ごめんなさいね。

 こういう、論文のスタイルの違いについて、内田樹さんが、以下のように書いています。内田さんは、転載をお許しくださっている方なので、以下のそれを貼り付けます。

さらさらと小テストの採点をしていると院生のS田くんが、修論の相談に来る。
学術論文のライティングスタイルとして規範化されている作法がどうも肌に合わないというご相談である。
学術論文のスタイルには「アングロサクソン型」と「大陸型」の二種類がある。
社会科学系の論文は(理科系の論文に準じて)アングロサクソン型で書かれるのが普通であるが、宗教や哲学や文学などについて論じる場合は、論文を書きつつある主体自身の思考や文体そのものの被投性を遡及的に問うという面倒な作業を伴うために「大陸型」(フーコーやデリダやレヴィナスやラカンのような書き方)で書かれるのが普通である、ということをご説明する。
「大陸型」の書き手は「アングロサクソン型」の書き物をすらすら読めるが(だってわかりやすいんだもん)、「アングロサクソン型」の書き手は「大陸型」の書き物を理解しようとする努力を惜しむ傾向にある。
S田さんは宗教的経験・霊的経験について論述する予定であるようだが、こういう論文では鍵語(「神」とか「霊」とか)を一義的に定義することができない。鍵語を定義しないままで、「鍵語を定義しえない人間知性の限界性」そのものを問い返す作業をアングロサクソン型の論述で進めるのはかなりむずかしい(できないことではないが)。
学術性を確保しながら、学術性の基礎づけそのものを問い返すためには、言語的なアクロバシーが要求される。
まず「言葉を操る技術」がなければ、何も始まらない、というようなことをお話しする。
お役に立てたであろうか。

 大田先生が『教育研究の課題と方法』で書かれているものも、このようなスタイルで、思考されたものだと思うのです。

 私自身は、社会科学系の大学院を出ていますから、周りは「アングロサクソン型」の論文を書かれる方ばかり。私自身も、そういうものを書いてきました。

 そのもう一方で、「大陸型」のものも読みつつ。確かに、大陸型のものはなかなか読めないものです。

 けれど、読んで、満足のため息をつきながら本を閉じることができるのは、圧倒的に後者なのです。私の場合は。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中教審の反省。

 学生さんから、「中教審が「反省」したという記事を読みましたよ」というメールをいただいて、読売新聞を読みました。

 あらまあ。

 「「授業減らしすぎた」中教審が異例の反省」という記事です。驚きました。こんな記事です。

 次の学習指導要領を審議している中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)が、近く公表する中間報告「審議のまとめ」の中で、現行の指導要領による「ゆとり教育」が行き詰まった原因を分析し、「授業時間を減らしすぎた」などと反省点を列挙することがわかった。

Click here to find out more!

 中教審はすでに、小中学校での授業時間増など「脱ゆとり」の方針を決めているが、反省の姿勢を明確に打ち出すのは初めて。中教審が自己批判するのは極めて異例だが、反省点を具体的に示さなければ、方針転換の理由が学校現場に伝わらないと判断した。

 中教審は1996年、それまでの詰め込み教育への反省から、思考力や表現力といった学力と、他人を思いやる心などを「生きる力」として提唱。現行 の学習指導要領は、この「生きる力」の育成を教育目標に掲げ、小中とも授業内容を3割削ったり、総授業時間数を1割近く減らしたりしたほか、教科を横断し た学習で思考力などを身につける「総合学習の時間」の創設を盛り込んだ。しかし、指導要領が実施されると、授業時間の減少により、「基礎学力が低下した」 「子供の学習意欲の個人差が広がった」といった批判が相次いだ。

 中教審が今回、反省点として挙げるのは、〈1〉「生きる力」とは何か、なぜ必要なのかを、国が教師や保護者に伝えられなかった〈2〉「生きる力」 の象徴として、「自ら学び自ら考える力の育成」を掲げたが、子供の自主性を尊重するあまり、指導をちゅうちょする教師が増えた〈3〉総合学習の時間を創設 したが、その意義を伝えきれなかった〈4〉授業時間を減らしすぎたため、基礎的な知識の習得が不十分になり、思考力や表現力も育成できなかった〈5〉家庭 や地域の教育力の低下を踏まえていなかった――の5点。

 ゆとりが強調されたことで、教師が基本的な知識を教えることまで「詰め込み教育」ととらえ、避けるようになったと振り返るとともに、主要教科の授 業時間が減って、観察やリポート作成の時間がなくなったと分析。さらに、家庭や地域の教育力が低下し、生活習慣や規範意識を身につけさせる上で学校の役割 が増していたのに、その認識もなかったと反省している。

 中教審は、こうした反省を踏まえ、次の学習指導要領では、「生きる力」をはぐくむという理念は残しつつ、十分な授業時間の確保や道徳教育の充実を 図る必要があると結論づけた。近く公表する「審議のまとめ」を基にさらに議論を進め、来年1月ごろに答申をまとめ、文科省が今年度内に学習指導要領を改定 する。

 同省はこれまで、「運用面で問題があったが、ゆとり教育の理念は間違えていない」などとし、明確な反省を示してこなかった。

(2007年10月28日3時0分  読売新聞)



 記事にあったように、中教審がこういった「反省」をされることは、極めて異例のことです。これまでも、「方針撤回」かな、と思われる場面は多かったように思われますが、「反省」なんて。そういう話って聞いたことがないですよね。ですので、本当に私も驚きです。
 それほどまでに、この間の学力論議は厳しいものがあったのでしょう。

 今回の発言について、私はまだ、きちんとした分析ができていないのですが、こういう反省って、気持ちがいいものだと思っています。今まで、反省がなかったことが不思議です。その時点、その時点で精一杯考えて、その都度その都度、反省をしていけばいいと思うのですよ。
 こういう「反省性」が、教師の仕事においても大切なことだと思いますし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

どこでも寝られ、なんでも食べれて、誰とでも友達になれる?

ちょっと古いエントリなんですが、内田樹さんのブログのエントリ、「生きていてくれさえすればいい」は感動的です。

近世日本が世界でも例外的に「子どもをかわいがる社会」であったことは、幕末に日本に来た西欧の人々が仰天した記録がたくさん残っていることから知られている。
これほど子どもが幸福そうに暮らしている社会を他に知らないとさえ書かれている。
寺子屋についても記録はたくさん残っているが、絵を見ると、今の学校であれば「学級崩壊」的な状況である。
子どもたちはてんでに好きなことをしている(これは寺子屋の授業が全級一斉ではなく、子どもひとりひとりに与えられた課題が違うせいである)。手習いなんかしないでそこらへんを走り回ったり、まわりの子どもの邪魔をしたり、障子を蹴破ったり、上がり框から転げ落ちたりしている子どもいる。
もちろんおおかたの子どもたちはまじめに勉強しているんだけど。
総じて江戸時代までの日本人は子どもに甘かったようである。
理由の一つは幼児死亡率が高かったことにある。
江戸時代の平均余命は男子が20歳、女子が28歳である。
これほど低いのは、生まれた子供の7割が乳児幼児のうちに死んだからである。
だから、元気で遊んでいる子どもというのは「よくぞここまで育ってくれた」という感懐と同時に「この子は明日も生きているだろうか?」という不安とを同時に親にもたらす存在であったのである。
そういうときには、あまり子どもをびしびし鍛えるとか、そういう気分にはならぬものである。
もちろん西欧だって幼児死亡率は日本と似たようなものであるから、それだけでは日本人が例外的に子どもを甘やかしたことの理由にはならない。
だが、少なくとも現代日本の親たちの口から、わが子について「生きてくれさえすればそれでいい」というところまでラディカルな愛情表現のことばを聴くことはまれである。
それだけ子どもをとりまく衛生環境が向上したからである。
子どもが「生物学的に生き残ることが当たり前」になると、今度は「どのような付加価値をつけて、子どもを社会的に生き残らせるか」ということが親にとって切実な問題になる。
今の日本では、「子どもをどうやって社会的に生き残らせるか」という問いは「子どもにどうやって金を稼がせるか」という問いに書き換えられる。
「生き延びる力」と「金を稼ぐ力」は私たちの社会ではイコールに置かれている。
繰り返しここでも書いていることだが、これは人類史の中ではごくごく例外的なことである。
人類史の99%において、「生き延びる力」とは文字通り「生き延びる力」のことであった。
細菌や飢餓や肉食獣や敵対部族の襲撃や同胞からの嫉妬をどうやって「生き延びるか」ということが最優先の人間的課題であり、そのために必要な資質を子どもたちは最優先で開発させられたのである。
環境適応性が高いのでどこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友だちになれる・・・そういう能力が「生き延びる」ためにはいちばん有用である。
けれども、これらの能力は「金を稼ぐ」という抽象的な作業には直結しない。
だから、現代日本のような極度に安全な社会においては、「生物が生き残るために最優先に開発すべき資質」の開発は顧みられることなく、ごく例外的な歴史的条件下でのみ有意である「金を稼ぐ能力」の開発に教育資源のほとんどが投じられることになったのである。
私はこのような歪みは日本社会が人類史上例外的に安全な社会になったことの「コスト」として甘受せねばならないと考えている。
つねに死の危険に脅かされているために「生物学的に強い子ども」でならなければならない社会と、とりあえず生き死にの心配がないので「生物学的に弱い子ども」でいても平気な社会のどちらが子どもにとって幸福かという問いに答えるのに逡巡する親はいないであろう。
でも、毎日の新聞を読んでいると、ローンが払えないせいで一家心中したり、進路のことで意見が違ったので親を殺したり、生活態度が怠惰なので子どもを殺したり、いじめを苦にして自殺する事件が起きている。
ローンとか生活態度とか進路とかいじめとかいうのは、すべて社会関係の中で起きている「記号」レベルの出来事であり、生物学的・生理学的な人間の存在にはほとんど触れることがない。
でも、そのような記号レベルの出来事で現に毎日のように人間が死ぬ。
社会が安全になったせいで、命の重さについて真剣に考慮する必要がなくなった社会では、逆に命が貨幣と同じように記号的に使われる。
社会はあまりに安全になりすぎると却って危険になる。
そういうこともあるのかも知れない。
「生きていてくれさえすればいい」というのが親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。
寺子屋の話を聴きながら、そんなことを考えた。

もちろん、全体の主旨が感動なのですが、今回、書いておきたいなあと思ったのは、以下の部分。

環境適応性が高いのでどこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友だちになれる・・・そういう能力が「生き延びる」ためにはいちばん有用である。

そう。

「どこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友だちになれる」この4つって、人生を生きていく上で、大切なことだと思うのです。

それで思ったんです。

アジールの職員採用面接では、こう聞こう、と。

「どこでも寝られ、なんでも食べれて、誰とでも友達になれる?」(危機感知能力は自分ではわからないでしょうから)

これにパスした人を、職員では採用しようっと。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

仲本正夫『学力への挑戦』

 今日の話題は、仲本正夫の『学力への挑戦』から。なんでこんな古い実践記録を?? と思われる方もいらっしゃるでしょうが。実は、堀尾輝久の『教育入門』を読まれている学生さんがいらして、なかなか読めない、というので、そのフォローに入ったのでした。

 『教育入門』といえば、私が大学1年生のときの購読のテキストでした。S藤先生、この本1冊で、半期の購読を回したのですから、今思えば、すごい(汗)。私なんて貧乏性なので、どんどん、過剰な教材を学生さんに与えてしまいますからねえ。
 それでもって、学部1年のときにこれを読んで、その勢いで、そこに紹介されていた仲本さんの『学力への挑戦』そしてその続編の『自立への挑戦』を一気に読んだことをよく覚えています。
  なんか思うのは、最近の学生さんって、そういう本の読み方が少ないようですね。「何を読んだらいいですか?」とよく聞かれるのです。でも、例えば、テキス トになっている本を1冊読めば、そこで紹介されていて面白いなあと思った本を、言われなくても手に取り、それが面白ければ、その著者のものを全部読みた い! って思うものかなあと思うのですが……。だから、私などは、読みたい本ばかりで、時間が追いつかないのですけれど。そんなもんじゃないのかなあ??
 まあ、それはともかくとして、授業では、仲本さんの実践を紹介しました。
 仲本さんの本は、1979年に出版されています。落ちこぼれが言われ、「ゆとり教育」が叫ばれた頃です。この当時、いわゆる高校の底辺校の3年生の数学で、微分積分を教えた、という実践です。
 底辺校の子どもたちの数学の力は、今風に言えば、「分数ができない高校生」といったところだと思います。では、この子たちに、つまづいているところまで戻って、算数・数学を教えればいいのか? というのが仲本さんの挑戦です。
 基礎学力回復のための「治療的教育」、ドリル重視は、最近も叫ばれています。けれど、高校生に小学生と同じ問題を反復練習させるのって、どうなんでしょう? 高校生のプライドが、それを許さないのではないでしょうかねえ。
  だから仲本さんは、そういう実践はしません。高校生ならば、微分や積分の基本的な概念は、基礎学力に問題があったとしても、つかむことができる、と仲本さ んは言っています。そういう微分や積分の新しい概念の学習を軸にしながら、問題があれば、基礎的な学力への回復へも手をのばしていく、という、高校生にふ さわしい学力、微分や積分の基本の習得と、基礎的な学力の回復の結合した内容が目指されたわけです。
 そして子どもたちは、「根本から」数学を学んだという体験をし、最後には、遠山啓の『数学入門』(岩波新書)が読めるまでになっていくのです。
 この仲本さんの実践って、今、これだけ、基礎学力、ドリル学習の必要性が言われている中で、改めて読み返してみてもいいのではないでしょうかねえ。学ぶということは、抜けているところをそのまま補うような単線的な過程ではないと思うのです。

 皆さんは、どうお考えになりますか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小学生の暴力増加。

 「学房アジール」以外でも私は教えているのですが、今日はその「学校」の授業でした。
 驚いたことは、私の授業を聞きに、地方から週末だけおいでになるという方がいらっしゃるということです。まあ、私の授業だけではなくて、他の授業も、な のですが。それで、週末の2~3日だけをホテル住まいをして、東京に通われる、というわけなのです。皆さん、新幹線で3時間とかかかるところからの「通 学」です。
 わあ、どうしよう。
 そこまでしておいでくださっている方が複数いらっしゃるわけですからね。気を引き締めてがんばりたいと思います。
 もちろん、近くからの方にも。
 授業に出るために、引っ越された方もいらっしゃいますからね。
 本当に緊張します。

  今日の話題は、「小学生の暴力増加」についてです。この件は、よく報道されるものではあるのですが、腑に落ちないように感じます。というのは、各都道府県別の暴力件数を見ていくと、例えば2005年度、東京は65件、神奈川は501件なんです。児童数で割っ て、発生率を比較したら、神奈川の方が児童数は少ないですからね、東京と比べると、極端に多い発生率になるのではないかと思うんですよね。
 えっ、神奈川の子どもって、東京の子どもよりも、そんなに暴力的なの? それを説明する合理的な理由ってあるのかなあ、と思ってしまうんです。
 神奈川と東京の例だけでなく、全国を見ると、そんな数字ばかり……。だから、調査の仕方に、なんらかの特徴があるのではないかと推測します。
 そうなってくると、この調査の「急増」という「事実」そのものを、括弧にくくって再考したいと思ってしまうわけです。
 皆さん、どう考えますか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

課題文が提示された小論文について

 今日は、学生さんの小論文をずっと読んでいました。
 課題文が提示されて、それを読んだ上で、論述する、というタイプの問題です。意外と学生さん、苦戦されています。
 今回の出題文は、非常に教育的なテキストでした。ある意味で、非の打ち所の無い、全部が共感できるようなテキストだったので、書きづらかったのかもしれません。
 でもたとえそうであったとしても、やはり、課題文が提示されている出題の場合、出題文に言及しながら自らの見解を述べてほしいと思います。論文の中で、出題のテーマが独自に展開されていたとして、出題文との関わりが読み取れないものでは、出題の意図が理解されていないと判断されかねません。また、出題文をなぞるだけの解答も避けてほしいと思います。出題文の筆者の主張と、自分自身の主張を区分し、両者の関係について自覚しながら、解答を作成してほしいと思います。
 だから、課題文が提示されている小論文の採点基準は、はっきりしているんですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

作文が書けない!

 ここ数年、子どもたちを教えていて、「作文が書けない」「作文を教えてほしい」と言われることが多くなってきたように感じます。ちょっと前までは、塾講師、家庭教師といえば、英語に数学だったように思いますが。作文教育(生活綴方教育)、言葉、言語、文学に関心を持っている私としては、うれしいかぎりです(笑)。やっぱり、作文、言葉の教育は大切だと思っていますから。

 2005年12月にOECDのPISA調査の結果が発表されました。2000年は8位だった日本の子どもの「読解リテラシー」は14位にまで低下しています。この調査の結果は、順位にとどまらず、質的に日本の子どもの学力を問うものであります。このことはまた、機会を改めて書きたいと思いますが、本当に深刻なんですよ!

 また、2006年2月に発表された、次期学習指導要領についての中央教育審議会の教育課程部会の審議経過報告でも、「国語力の育成」が重視されています。

 ちょっと余談ですが、この報告については、内田樹さんのブログ「言葉の力」 が非常に面白いと思います。言葉を「道具」としか考えない言語観を批判しています。言葉を畏怖すること、言葉の現実変成力。私は、内田樹さんに大きく影響を受けながら、「詩の言葉の持つ力」という論考を書いたことがありますので、大いに共感したものです。

 さて、本題に戻って。

 これだけ世の中が「国語」「言葉」の教育に注目しているわけですから、保護者の皆様が「作文を教えて」とおっしゃるのも尤もなことだと思います。

 もちろん作文にもいろいろな書き方がありますので、教えることはたくさんあります。作文から小論文、論文にわたっていく時にはなおさらです。

 でも、まず一番最初にやっておきたいなあと思うことは、たくさん「読む」ことです。

 作文は「書き方」を習えば書けるようになるものではありません。

 私たちは、これまで私たちが聞いてきた、たくさんのフレーズから取捨選択して、切り貼りをして、言葉を発しています。「私」が語っていることの中で、自分自身が考えたこと、全くの「オリジナル」な部分は、ほんのわずかでしかありません(今こうして私が書いていることも、多くは、内田樹や丸山圭三郎、ソシュール、R.バルトの「受け売り」です)。

 けれども、そのたくさんの言葉のストックの中から、何を選ぶのか、という点において、十分な「オリジナリティ」を発揮することができるのです。

 だから、「作文が書けない」と言う子どもたちには、まずは、たくさんの文章を読んでほしいと思うのです。話し言葉と書き言葉は、全くの別物です。たくさんおしゃべりができる子でも、「話すように書く」ことは難しいものですから。

 読むものは、何でもいいのですが、読書にも抵抗がある場合には、自分と同じくらいの子どもたちが書いた詩や作文はいかがでしょうか。

 手前味噌ですが、私も編集に参加した『ココロの絵本』というシリーズ本があります(それにしても、この「ココロ」というネーミングはひどいセンスですね、内田樹の「言葉の力」的には。でも、私の力では、ネーミングを変えることができませんでした(涙)。この本の中では、小学生から中学生、高校生の子どもたちが書いた詩や作文がたくさん紹介されています。「こんなことを書いてもいいんだ」と思えるような作品もたくさんです。

 まずは、読むことから始めてみてはいかがでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

身を委ねること。

 学生さんに関わって指導をしていると、自分の今、持っているスキームで学ぶことの必要か否かを裁定する学生さんよりも、とりあえず私の話に「乗る」ことのできる学生さんの方がどうも伸びるように、経験的に感じています。
 どうして、私の話に「乗る」ことのできた学生さんの方が、伸びるのでしょうか? 私の講義がそれほど効果的だから? ははは、そんなことは口が裂けても言えません。

 私の話に「乗る」ことのできる学生さんというのは、話の内容がわかろうがわかるまいが、自分の身を相手に委ね、新しいスキームを取り入れることができるのだと思います。自分のスキームが強固な方の場合は、自分のスキームから、「これは必要無い」と判断していきますからね。だから、そう簡単には、人の話には「乗る」ことができないんです。
 でも、「乗る」ことのできる人は、とりあえず、自分の考えは括弧に入れて、すなわち、自らのスキームを一旦手放して、人の話を聴ける人なのだと思います。

 そういう構えのある人は、他のあらゆる場面でも、そのように自らのスキームを手放して新しいスキームを、異なる度量衡の尺度に触れることができる人なのだと思います。
 そういう人は、自分のスキームを超えたものを吸収することができる……だから、伸びるのだと思います。

 本当に不思議なもので、どういうわけか、これでかなりはっきり、伸びる人とそうでない人を見分けることができるのです。

 でもまあ、人には相性というものがありますからね。私に身を委ねることができない方でも、他にきっと、そういうことができる人がいるはずです。

 私でなくても、もちろんかまいません。どこかでそういう「他者」を見つけて、自分のスキームを手放す体験をしてほしいと思うものです。

 さて、こういったことを延々と書いているのは、自らの深い反省から。

 私自身は、自らのスキームを確固として生きるよう、再教育された、という悲しみがあります。今だったら思うんですよ、そんな教育は間違っている、と。「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)は、「百害あって一利なし」です。それよりも、こだわりもプライドもなくてして、相手に身を委ねることができた方が、ずっとずっと、成長することができると思うんですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「勉強って役に立つの?」

 子どもたち(に限るわけでもありませんが)を教えていると、よくこう聞かれます。
 「こんな数学、役に立つの?」「俺、英語なんて使わないし」等々。
 確かに、子どもたちが言うことも、一見、あたっているように思いますよね。だって、私だって、日常生活する上では、微分積分なんて、使いませんから!
 でも、こういう学習をする理由って、子どもたちにわかるように説明することができるのでしょうか?
 勉強をすると、「こんなにいいことがある」「こんなに就職に有利」、そんなチープな資本主義的な枠組みの中でしか、子どもたちに説明することができないのではないでしょうか。というのは、彼らの持っている、理解の枠組みは、現代社会で最も支配的な資本主義、消費社会のスキームですから。子どもほど、ダイレクトに時代を感じ取っている存在はありません。
 人間が行っていることは、非常にわかりやすいことだけではありません。子どもには判らないことが、世の中にはあるのだと思います。
 私自身、そのようなかつての自分のスキームでは理解できないことがあるということを、年齢を重ねる上で痛感する場面が多くなりました。まだまだ、一応(!)若いので、もちろんこれからも、「今」のスキームを壊し、構築していくことの繰り返しだと思います。だからこそ、今の自分のスキームで、「役に立つんですか?」と問うことのナンセンスさを感じてしまうのです。
 「いいからやりなさい」。こう子どもに言うことは、権威的な、悪しき教師像として語られていたように思います。けれど、人間の学びが、自分のスキームを超えた「他者」なるものに出会うということである以上、「いいからやりなさい」は、必然的な構造であるように思うのです。
 教師の側が、それだけの覚悟をもって子どもたちに向かうときには、子どもたちは、その「真実」がわかるようです。こちらの気迫というのは、不思議なことに伝わるものです。
数十人の学生さんの前で講義をしていても、私が、一種のルーティンとして知識を授与するような話の場面と、たとえ余談ではあっても、あるいは、学生さんにはわからないだろうなあと思うような内容であっても、気迫のある内容の場合には、反応が違うものです。そして、後者の話を面白い、と感じている学生さんは、なぜか、伸びるように感じます。
 それはどうしてでしょうか。その理由の一つの説明の物語については、またの機会に書きたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

有責性と、社会的承認としての労働。

 いろいろな仕事が一段落して、ちょっとだけ休息気分になっています。だってこの間、内田樹さんのブログのチェックもできなかったぐらいなのですから、どれほど私が忙しかったのか、ご想像いただけるでしょう(笑。

 それで、久々に読んだブログなのですが、やっぱり、いいです。こういうときに、どういうわけか、私の状態にフィットした記事があるので、やはり、呼ばれているように感じてしまうのです。

 最新記事の「この夏最後の出稼ぎツアー」は、本当にいいです。これは、県立高校の校長先生対象の研修会で話されたことのベースが書かれています。内田さんは、教育学の研究者ではありません。でも、私自身は、最もインスパイアされ、かつ、安心して読める教育論の一つなのです。内田さんはOKだと思いますので、転載しながら書いていきましょう。

 まず、内田さんは、「有責性」について書かれています。

原則として教育現場からお声がかかったときには必ず行くようにしている。

メディアで発言する知識人の中に、教育現場の先生たちを応援する立場から発言する人がぜんぜんいないからである。
教育現場の実情をほとんど知らない人たちでも、とりあえず教員の悪口さえ言っていれば、それなりに批評性があるように見える。
そういう風潮がある。
誰だって「自分には学校のことがわかっている」と思えるからである。
でも、いま教育の現場で起きていることは悪いけれど「前代未聞」の事態である。
地殻変動的な変化が起きている。
教育現場を批判している人々を含んだ社会構造全体の「ゆがみ」が学校という特異点において拡大されたしかたで露出しているのである。
だから、自分は「ふつう」だと思っている人が学校の「異常」を批判するというスキームを採用する限り、学校で何が起きているかは彼にはわからない。
社会全体が病んでいるとき、社会のもっとも弱い環である子どもを通じて社会の病はもっとも剥き出しのかたちで露出する。
エレベーターが落下しているときに、「落ちているのは誰だ?」というような詮索をしてもしかたがない。
「全員が落ちている」という現状認識を共有するまでエレベーターの落下を止める方策を論じる機会は到来しない。
そういうものである。
「教育再生会議」というのは、いまにして思えば含蓄のあるネーミングであった。
「再生」という以上、教育は「死んでいた」のである。
この認識はある意味で正しい。
教育現場が死んでいるということは、教育理論も、教育行政も、政府主導の教育改革も、およそこれまで教育について語られてきた言説となされた実践のほとんどは「死んでいた」ということである。
残念ながら、教育再生会議はそこまでは知恵が回らなかった。
というのは、会議に招集された「有識者」たちは全員がこの「教育の死」に加担してきたことを否認したからである。
まずその事実を認め、自分たちがそれまで行ってきた教育実践はこの事態の到来を防ぐことができなかった点について程度の差はあれ有罪であるという「有責感の自覚」から会議はスタートすべきだったと思う。
しかし、彼らはそうする代わりに「実現されなかった正しさ」の代弁者という立場を取った。
それでは「教育の死」が彼ら自身をもまきこんだ巨大な構造的な問題である可能性には思い至ることができない。
人はそのようにして構造的無知の立場を先取してしまう。
ショートスパンの「正しさ」を手に入れる代償に、ロングスパンの「無知」を呼び入れてしまうのである。
人間は不注意から愚鈍になるのではない。
愚鈍さはつねに努力の成果である。

私が教員たちの集まりに可能性を感じるのは、ここが「教育危機を誰か自分以外の誰かのせいにする」余地がない考えうるほとんど唯一の場だからである。
現場の教員の現実認識がメディア知識人よりすぐれているのは、彼らは「何が起きているのか、実は自分たちにはよくわかっていないということをわかっている」点にある。
メディア知識人は教育について「そこで何が起きているのか熟知しているような顔」をしている。
だからきわめて切れ味よく、危機の原因が何であって、それを補正するためには何をすればいいのかをぺらぺらと説明してくれる(もちろん、彼らが言うようなシンプルな政策で教育危機はどうにもならない)。
現場の強みは「教育危機のせいで現に困っている」ということである。
メディア知識人や文教族の政治家は本音を言えば、教育危機で別に困っているわけではない。
むしろ「出番」が増えて、メディアで顔を売り、原稿料を荒稼ぎする絶好の機会である。
学校で何が起きようと、そんなことは彼らにとってはどうでもよいことである。
だが、教員にとって教育危機はダイレクトに血圧が上がり、胃に穴が開き、血尿が出る具体的な問題である。
彼らの血圧を下げ、胃の粘膜にやさしく、腎臓への負担をやわらげるものであり、かつ彼らを説得できるだけ現実的経験に裏付けられたリアルなことばしかこの場では通用しない。
だから、私は教員たちを前にして教育危機の実相とそれへの対処について論じることを一種の「テスト」だと思っているのである。

 私自身、長く身を置いた大学院から離れ、教育実践の場である自分の「学校」を開いてから、いわゆる知識人たちの「有責性」の無さにかちんとくる場面が増えてきていました。

 もちろん、これまでの私も、その一員であったのかもしれません(そうならないように、自分では気を配っていたつもりではありましたが)。でも、自分で全ての責任を持つ、教育と経営の場を持つことで、そういう方々と自らの違いを痛切に感じるようになったのです。

 もちろん、「現場の人間にしかわからない」「経験しないとわからない」と言うつもりはありません。「経験しないとわからない」ということで、コミュニケーションの回路を断ちたくはないものですから。

 ただ、私自身に関していうと、「自ら責任を引き受ける」という立場に身を置くことによって、精神的な衛生を得られたように感じるのです。

 もちろん、大変なことも増えました。

 けれど、他者の責任を引き受けることの心地よさというものも、その一方では感じているのです。

 さて、内田樹さんの講演の本題について。以下のように記事は続いています。



本日の講演は「なぜ若者は労働のモチベーションを維持できないのか?」

これに関しては先日『文藝春秋special』という媒体に文章を書いたので、これをマクラにして90分間話す。
参考のために文春に寄稿したものを採録しておこう。もう出版されてだいぶ経つからよろしいであろう。

「やりがいのある仕事」を求めて短期間に離職・転職を繰り返す若者が増えている。ニートや非正規雇用が問題になるときにも、「やりがい」という言葉 が繰り返し口にされる。「若者にもっと『やりがいのある仕事』を制度的に提供できれば、問題は解決する」という言い方をするメディア知識人も少なくない。
だが、「やりがいのある仕事」とは何のことなのか。
この語の語義について、国民的合意は存在するのだろうか。私は違うと思う。そして、同一語を別の意味に使っていることが、事態を混乱させているのではないかと思っている。
ある年代から上にとって、「やりがいのある仕事」というのは、「どこかで誰かの役に立っている仕事」のことを意味している。おのれ労苦の「受益者」がどこ かにおり、その笑顔や感謝を想像することが労働のモチベーションを担保する。それが「やりがい」という語の意味だったはずである。
だが、この定義は若い世代にはもう適用できない。というのは、今ではどうやら個人の努力がもたらす利得を「私ひとり」が排他的に占有できる仕事のことを「やりがいのある仕事」と呼ぶ習慣が定着しているようだからである。
「受益者が私ひとり」であるような仕事を「やりがいのある仕事」と呼ぶ不思議な労働観が生まれたのにはもちろん理由がある。それは「受験勉強」の経験が涵養したものである。
受験勉強では努力と成果の間に「正の相関」があり、個人的努力の成果は本人が100%占有する。一生懸命勉強をして入試で高得点を取ったので、あまり勉強 していなかった隣席のヤマダくんもその「余沢」に浴していっしょに合格できた、というようなことは受験勉強の場面では絶対に起こらない。
けれども、私たちの日々の仕事の現場ではむしろそちらの方が常態なのである。仕事のほとんどは集団の営為であり、利益は仲間の間で分配され、リスクはヘッジされる。人間的労働は集団的に行われることで効率を高め、危機を回避するメカニズムだからである。
受験勉強は将来の労働者を類別・序列化するためのシステムではあるが、それ自体は労働ではない。それを同一視して、受験勉強をする気分で労働の現場に踏み 込んでくる若者は仰天してしまうのである。どうして、ここでは自分の努力の成果が自分に専一的にリターンされないのか?受験勉強的「成果主義」になじんだ 子どもは、自分の努力が固有名での達成としてはカウントされず、集団で(それもろくな働きをしていない人間も含めて)分配しなければならないという「不条 理」が理解できない。
しかし、若者たちの多くはアルバイトをしているではないか、というご意見があるだろう。あれは労働ではないのか、と。
残念ながら「バイト」は労働の条件を備えていない。というのは、あれはモジュール化・マニュアル化された労働の「断片」に過ぎず、アルバイト労働は断片化 されることで互換性を確保している。それゆえ、バイト労働者には労働契約に規定された以外の労働をすることが要求されない。だから、彼らは「自分の仕事」 の境界線の外に生じたミスやトラブルを「自分の仕事」として引き受ける習慣がない。
しかし、ビジネスの現場では、ミスはしばしば「誰の領域でもないグレーゾーン」に発生する。「自分の仕事」ではないのだけれど、とりあえず片付けておく か・・・という「よけいなお節介」によってシステムはしばしば致命的なクラッシュを回避している。でも、彼がシステムを救ったという事実は前景化しない (「何も起きなかった」というのが彼の達成したことだからである)。多大の貢献をしながら、成果としては評価されない。この事実を多くの若者は不合理だと 感じる。
受験勉強とバイトという二種類の「ワーク」を通じて労働というものを理解してきた子どもたちには「成人の労働」の意味がよくわからない。
成人の労働の本質は、個人の努力が集団の達成に読み替えられる変換のうちに存する。自分の努力の成果が、できるだけ多くの他者に利益として分配されること を求めるような「特異なメンタリティ」によって成人の労働は動機づけられている。それが納得できないという人は成人の労働には向かない。事実、多くの若者 たちが「三年で辞める」のはそのせいである。
「やりがい」を求めて離職転職する若者たちはの多くは個人的努力の成果を誰ともシェアせず独占できる仕事に就こうとする。たしかに才能があれば、起業家や 投資家や作家やアーティストや医師や弁護士になれるかもしれない。けれども、「個人的努力の成果を占有できる」ということは、裏から言えば「リスクを全部 一人で負わなければならない」ということである。どれほどスマートでタフな人間も天災や政変や疫病のようなリスク・ファクターのすべてを回避することはで きない。利益を分配する代わりにリスクをヘッジしてくれる集団への帰属を拒否する人間は一回の失敗ですべてを失う可能性を勘定に入れておいた方がいい。
私たちが労働するのは自己実現のためでも、適正な評価を得るためでも、クリエイティヴであるためでもない、生き延びるためである。成人の労働ができるだけ 多くの他者に利益を分配することを喜びと感じるような「特異なメンタリティ」を私たちに要求するのは、それが「生き延びるチャンス」の代価だからである。 この代価は決して高いものだと私には思われない。

| | コメント (0) | トラックバック (8)

理想の単一の教育論なんて。

 

内田樹さんのブログを読んでいたら、笑うに笑えない記事がありました。古い記事なのですが、全面的に賛成なので、その一部をご紹介したいと思います。

「理想のたこ焼き」というものをつくり出したいとする。
あなたならどうします。
「理想的なたこ焼きレシピ」を衆知を集めて作成し、 「理想的なたこ焼きマシン」を作成して、全国のたこ焼き屋に配布し、それ以外のたこ焼き作成を禁じ、全国津々浦々どこでも「同じ味のたこ焼き」が食べられ るようになれば、それで日本の食文化の水準が上がったと誇らしげに言う人間がいるだろうか。
いるはずがない。
あらゆるところでレシピが違い、道具が違い、焼き加減が違い、トッピングが違い、値段が違い・・・という「でたらめさ」がたこ焼きの質的向上と不断のイノベーションを可能にしているということに誰でも気がつく。
どうして「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに、「人間」については、同じことをお認め頂けないのか?
私にはその理路がわからない。
人間もたこ焼きも一緒である。
「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。
当たり前のことである。
「ありうべき教育」がどのようなものであるかは「こちら」で決めるから、教師たちはそれに従うように、という教育行政のあり方そのものが教育をダメにするのである。
安倍内閣は仄聞するところでは教育改革にたいへん熱心であるらしい。
教 育基本法を改定し、教師の資格制度を整備し、学習指導要領を緻密化し、教育委員会による教師たちの統制と支配を強化する・・・という施策は「ありうべきた こ焼き」を全国のたこ焼き屋に作らせるために、「たこ焼き基本法」を整備し、「たこ焼き士」認定制度を作り、「たこ焼き作成要領」を法整備し、「たこ焼き 監視官」を全国に網羅的に配備して、「青のりの散布量が標準値よりも少ない」たこ焼き屋を摘発するのとまったく同じことである。
申し上げるけれど、そんなことに行政的なリソースを割くのは、税金をドブに棄てることに等しいであろう。
それによって教育が今より少しでもよい方向に行く可能性は限りなくゼロに近い(「ゼロである」と言い切れないのは、教育改革のあまりのばかばかしさに全国民が気づいて「もうこんなのやめようよ」と言い出す方向に棹さす可能性を否定できないからであるが)。
私は「教育はいかにあるべきかに」ついて首相官邸にいるどの政治家官僚よりも長い時間考えてきている。
これについては自信がある。
その私が言うのだから、信用して欲しい。
日本のたこ焼きのレベルを上げようと思ったら、たこ焼き屋に創意工夫をするフリーハンドを与えることが最良の方法である。
教育も同じである。
政治家と官僚たちは(ついでにメディアの諸君も)お願いだから学校のことは忘れて欲しい。
あなたがたが学校のことを忘れてくれたら、それだけで日本の教育はめざましい復活を遂げるであろう。
それは私がお約束する。

という話なのだが、今日、学生さんたちとこの文章を読んで、笑うに笑えない話だということを始めて知った。

食品関係の会社に勤めていた学生さんが、まさにこの「たこ焼き」と同じように、食品を作っていたという。機械を使って加工食品を作るためには、マ ニュアル作成が重要。その食品を作るときに、まったくノウハウが無いアルバイトのような人たちでも、一定の同じ「味」のものが作れるように、まさに「たこ 焼き基本法」を作成しているそうだ。

なので内田さんの「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに」というのは、現実とは違うかも、と言わざるを得ないのかもしれませんが(笑)。

まあそれはともかく、単一の「理想の単一のたこ焼き工程」があったとしても、人間にそれが当てはまるはずは決してありません。

子どもが違い、教師が違えば、同じ教育方法でも効果は全く異なります。私自身も、相手によって常に教材を変え、語りの内容を変え、語り方を変えています。同じ内容・語りでも、まったく反応が違うためにとまどうことも少なくありません。

よく考えれば、そんなことって当然のことですよね。私たちは日常的に、相手の反応を見ながら、自らの表現方法を変え、少しでもコミュニケーションが進むように努力するものではありませんか。

それからもう一つ。

こうしてアジールを開いて自らが教育実践を行う場面が多くなると、調査者として教育現場に入ることの意味について考えさせられます。私自身、「研究」と称して現場に入り、ペーパーをまとめ、メディア(大小の違いはありますが)でも発言をしてきました。

どこかで、「子どもバッシング」に加担したなあと思うような部分もあり、反省の気持ちをいだかないわけでもありません。

こうして実践の場に身を置くようになり、「学校のことは忘れて欲しい」ということに強く共感しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)